モンテッソーリ教育が競争を排除する4つの理由
先週、うちの子がモンテッソーリ教育から受けた6つの影響について書いた。その中で、モンテッソーリ教育では競争が一切なかったためか、ユウ(8歳)が全く競争心のない子に育ったことに触れた。
現代は競争社会である。教育を、「子どもを社会に送り出すために備えさせる場」と考える人にとっては、教育に競争原理を持ち込むことは避けられないことだろう。
今日は、なぜモンテッソーリ教育は競争を排除するのか、教育の役割とは、ということについて書いていきたい。
1. 競争は喜びを奪う
競争では、勝つことが至上の目的だ。競争は必然的に勝者と敗者を生み出す。
事柄が「勝ち」「負け」の一点にのみ集中すると、その事柄自体に取り組む本来の意味や喜びが失われる。これが、モンテッソーリ教育で競争を排除する主な理由だ。
スポーツ
スポーツには勝敗がつきものだ。霧立は、正直、スポーツくらい勝敗を持ち込んでいいのでないかと思っている。勝ち負けのないスポーツなんて、面白くないと思ってしまう。しかし、モンテッソーリ教育によると「勝敗を持ち込むとスポーツ本来の喜びを奪うことになる」のだ。
音楽
音楽の世界でも競争はある。その最たるものがコンクールだ。音楽は本来喜びのあふれるところ。音楽を通して自分を表現し、それを人と分かち合うのは芸術の醍醐味だ。
それなのに、コンクールでは技術やその表現力を競い合う。コンクールで優勝するのは1人だけ。99%以上の参加者は「敗者」になる。多くの者は挫折感を味わうことになり、本来の音楽の喜びを奪いかねないのだ。
2. 競争はエゴを助長する
子どもの日常生活
競争はスポーツや芸術の世界だけでない。幼稚園、学校現場、子どもの集まるところならどこででも利用されている。
幼稚園などで、先生が
「さあ、誰が一番にきれいにできるかな~?」
と競争によって子どもをコントロールしようとすることがよくある。目的は、気持ちよく過ごせように教室をきれいにすることなのに、子どもたちは「1番」になるために奮発する。
この手のことは気を付けて観察すると、1日中行われていることに気が付く。整列の場面、お昼の準備、移動する場面など子どもたちは常に競争を駆り立てられている。
なぜ教師は競争させるのか?それは、そのほうが子どもをコントロールするのが簡単だからだ。人間はもともと「1番になりたい」という自然の欲求(エゴ)があるそうだ。その欲求を利用して行動をコントロールするのが競争原理である。
しかし、それでは子どもたちは「なぜそうすることが重要なのか?」ということより「1番になること」しか考えなくなる。
3. 競争は子どもの夢を阻む
勉強
幼稚園の頃から日常的に競争させられてきた子どもたちは、受験する年齢に達する頃にはすっかり「競争原理」のレールに乗っかって人生を歩むことに疑問を挟まなくなっている。
どんな学校生活を送りたいか?どんな勉強をしたいか?ではなく、どれだけ偏差値の高い学校に行かれるかが最大の懸案事項になる。
マナブ(夫)は大学付属の高校に通っていた。実は本人は文学部に興味があったにもかかわらず、「文学部」=「就職に不利」というイメージに屈して文学部ではなく、総合なんちゃらという当時新設の学部に入った。しかし、本人は哲学や歴史に興味があったので、総合なんちゃら学部の授業は当然面白くなく、自分の選択をその後ずっと後悔していた。
競争原理で目がくらみ、本当の自分の夢、学ぶことや楽しみを見失ってしまった残念な例である。ついでに言うと、マナブは20年以上経て今頃本当にやりたい分野の研究をしている。随分な回り道をしてしまったわけだ。
4. 競争は子供の自尊心を秘かに破壊する
子どもの自尊心というものは、親がその子どもをどう評価しているかということに深く関わっている。親が子どもを高く評価している場合、子どもの自尊心も高い場合が多い。逆のケースもしかりである。
ところが、社会全体が競争社会である場合、親も相当意識しない限り競争原理から抜け出すことが出来ないのが普通だ。自分の子どもがよい成績を取ったり、難関大学に入学したり、スポーツで優秀な成績を収めれば、普通の親は大喜びする。
しかし、競争で勝つのはごく少数だ。つまり、大分部の子どもが敗北を経験する。親はがっかりする。子どもを思いやる余裕のある親は、がっかりした様子を見せないように気遣うことだろう。
子どもはこのような親の態度をどう受け取るのだろうか?成長した子どもたちを対象にしたある興味深いリサーチがある。
彼らは、何かに失敗した時、より愛されていないと感じた。そしてそのように答えた学生たちほど、親との関係が上手くいっていなかった。
その親たちは「どうしてだ?!いつでも、どんな時でも子どもを愛し、受け入れていた」と言う。しかし、親が送ったメッセージがどうであれ、子どもが実際どう感じたかが重要である。
また、親となった年代の人たち100人を対象にした調査では、多くの人が「親の期待に応えた時だけ、愛されていると感じた」と答えている。また、彼らの自尊心が低いことが分かっている。
競争・教育・社会
「そんなこと言ったって、競争はいい面もある」という意見もあるだろう。
競争があるからこそ、製品やサービスの発展があるというのは、霧立も賛成する。エディンバラのバス会社は競争がなくほとんど一社独占状態だ。だから21世紀だというのにお釣りは出でこない、両替も出来ないバスがすまし顔で走っている。
中国や韓国や今や日本以上に受験競争が激化している。子どもたちは日曜日でも学校に行くという。「日曜日はそれでも半日だから嬉しい」と言っていた韓国人の高校生のことが忘れられない。彼女は韓国の受験競争が嫌で日本に来ていた。しかし、ひとたび晴れて大学に入学すると彼らの多くは全く勉強することをやめてしまうという。
もはや教育においても、成績を付けない場合のほうが、生徒がよく勉強するという結果は色々なところで証明されているのだ。
ビジネスや経済においては、適切な競争原理はメリットがあるだろう。しかし教育は別だ。教育は子どもを社会の歯車にするために生産する工場ではない。
子どもは一人一人違った能力、興味を持っている。モンテッソーリ教育では、一人一人の能力や興味を伸ばすことを目的にしているので、そもそも競争が馴染まない。
また、学ぶこと自体に喜びを感じるため、モンテッソーリ教育を受けた子供たちは生涯にわたって学ぶ姿勢を持ち続ける傾向があると言われている。
「そんな呑気な教育で育った人間は温室育ち。社会に出て大丈夫なのか?」という人にはこららをご覧入れたい。
Google、Amazon、Microsoft、Facebook、Wikipediaの創業者はなんと全員モンテッソーリ教育を受けた人たちなのだ。他にも芸術界や大統領などでモンテッソーリ出身者は多くいる。
モンテッソーリ教育で育った子どもは、自分で考えることが好きで、じっくり考える忍耐も集中力も並外れている。競争にさらされていなくても、自分の生きる道をしっかり見つけ、その能力を磨き、結果として社会に貢献できる人間に成長するはずだ。