人前で緊張せずにヴァイオリンを弾くために
はじめに
霧立はヴァイオリンを弾くのが好きだが、人前で弾くと極度に緊張してしまう。弓を持つ右手がプルプル震えてしまって、こうなるともうダメ。演奏を楽しむどころではない。
他の人と音楽を分かち合いたいと思っているのに、緊張のせいで台無しになってしまう。これは本当に残念なことだ。
どうにかしてリラックスしたいと思えば思うほど、思いばかりが空回りして余計に緊張する。人前で弾くのは苦痛以外のなにものでもなくなってしまう。もう人前では絶対に弾くまい!と思った時すらある。
でも、霧立は母からの遺産でとびきり上等なヴァイオリンを買った。日本で買ったらおそらく500万円くらいする。
ヴァイオリン仲間の前で弾くと、
「なにその楽器っ!!!!」
「一体どこで見つけてきたのっ?!」
と、みんな途端に血相を変えるほどの楽器である。前の所有者はれっきとしたプロ奏者だった。
そこで、そんな楽器を持っているのに一人で家で弾いてていいのか?と思うようになった。
もちろん、これまでもオーケストラや室内楽で弾いてきたが、もっとこのヴァイオリンの音色を他の人と分かち合いたい、という思いがまた湧いてきた。そして、この「緊張対策」を自分なりにやってきた。
一朝一夕ではないものの、最近はほんの少しリラックスして弾けるようになってきたかな…と思っている。もうこれだけですごい進歩。
そしてリラックスして他の人と音楽を分かち合える喜びを感じ始めている。こんなことは、霧立の長いヴァイオリン人生で本当に久しぶりのこと。
今日は、楽器を弾くときに緊張してしまう人のために、霧立の試行錯誤の経験とリサーチの結果を紹介したいと思う。
1.カトー・ハヴァシュ
本人もヴァイオリニストで、あがりを克服するために世界中の弦楽奏者にレクチャーをしているカトー・ハヴァシュ氏。
彼女の書いた『「あがり』を克服する-ヴァイオリンを楽に弾きこなすために」は非常に参考になった。「あがり克服」の専門家だけあって、単なる精神論ではなく、力を抜くための奏法について細かく教えてくれている。
中でも霧立が教えられたのは、親指の重要性である。霧立の場合、緊張したときに弓を持つ右手が震えてしまうから、右手だけが問題だと思っていた。
しかし、体全体に常に力が入ってしまっていることが分かり(人前で弾くとき以外でも)、まずは普段から力を抜いて弾く練習が必要だということが分かった。
そして、右手にしろ左手にしろ、力を抜くには親指がカギであることが分かった。
右手の親指
まず右手の親指は関節をしっかり曲げて、親指の爪か関節付近が弓の毛の裏側に触れていること。
この形を保つことによって、弓のスティックの上側に添えられている4本の指は自動的に力が抜ける。本の中には、より脱力するためのエクスサイズも載っていて、かなりためになった。
そして、全てのボーイングはこの親指を意識してやる。親指で弓を引く、という感覚だ。そうすると他の指はあたかも存在しないかのように軽くなる。
また、驚くべきことに、この奏法でやるとずっと弓のコントロールが正確に、また機敏になった!今までもたついていたパッセージが均等に正確に弾けるようになった。一石二鳥である。
左手の親指
後ろに反らないように!人差し指と自然に向き合う角度でヴァイオリンのネックに添える。
これまで霧立の親指は後ろに反っていたので、かなり力が入っていた。早いパッセージを弾いたり、長い間弾いていると手がつってしまうほど。これでいいわけがない。
親指を後ろに反らせないようにすると、自然と左手全体の力が抜ける。親指とはすごいものだ。結果として、ポジション移動が楽になり、ビブラートも柔らかくなった。いいことづくめ!
カトー・ハヴァシュ氏はもう一冊、上がり克服のために素晴らしい本を書いている。「ハヴァシュヴァイオリン奏法-力みをとり、上がりを克服するアプローチ」というものだ。
これは先ほどの「『「あがり』を克服する-ヴァイオリンを楽に弾きこなすために」とセットと言ってもよいもので、この二冊は相互に補完するものとなっている。
霧立は両方買ったが、どちらもあがり克服だけではなく技術向上にとても役に立つ本だと思う。あのメニューインが推薦しているほどだ。何十年も弾いていると、知らず知らずのうちに間違った姿勢が身についてしまっているということも。長年の癖を変えるのは、並大抵ではない。
しかし、いきなりテニスの話で恐縮だが、錦織選手クラスでも体に負担のないフォームを研究し、常に変化している。ファームを変えるのはそう簡単ではないはずだ。でも練習がそれを可能にする。
霧立も、長年の癖を変えるために、1週間丸まる開放弦(左手の指で何も弦を抑えないで弾く)しか弾けない時もあった。でも、2,3か月もすると劇的にフォームを変えることが出来、かなり力を抜いて弾けるようになった。
肩こりや背中の痛みも激減した。もう以前の弾き方には戻れない。
2.場数を踏む
場数を踏むことによって、緊張は薄れてくるものだ。しかし、いきなりソロで場数を踏むのは、やめた方がいいかもしれない。心臓に悪すぎる。
霧立はソロではなく、ほかの人とアンサンブルで弾いたり、あるいは教会の礼拝で弾くようにしている。
特に教会の礼拝の場合、讃美歌の伴奏が基本なので、霧立が目立つわけでは全然ない。何百人の人々が歌うのと一緒に弾くので、はっきり言って間違えてもほとんど気づかれない。
それでも大勢の人の前に立ってスポットライトを浴びて弾くのに慣れる、という意味ではとてもいい経験になっている。何より、自分のために弾くのではないという、音楽の根本の部分が実感できるまたとない機会だ。
3.βブロッカー
これは最近、The Stradの記事で知った。緊張をとる薬があるなんて!もっと早く知っていればよかった~。
βブロッカーとは…
動悸・震えを強力に抑制する心臓関係の薬です。血圧を下げる作用もあります。緊張場面の前に服用します。発表(プレゼン)や挨拶等、人前で話す時などに動悸がして声や手足が震えるような人には、著明な効果が得られます。人前で字を書く時や、お茶を出す時、演奏会で楽器を演奏する時などに手が震えるような人にも奏功します。
本郷診療内科ホームページより
薬に頼るのはなんか抵抗ある…と思う人もいるかもしれない。しかし、クラシック音楽業界では実際かなりの数のプロの奏者が服用しているらしい。
1987年の研究によると、アメリカのプロのオーケストラ奏者のうち27%がβブロッカーを服用していたという。そして年々その数は増え続けているという。
これは心の問題にかかわるセンシティブな問題なため、公のデータは取りにくいとされている。しかし、ある調査によると、80~90%の演奏家はオーデイションの前にβブロッカーを服用している/したことがあると言われている(2010年)。
オーデションやコンクールの場で、そのような薬を使用することに「公平性」の点から賛否両論はあるらしい。しかし、アマチュアの域であれば、主治医と相談の上で使用するのは全く問題ないだろう。
4.人の演奏のあら捜しをしない
ある時、気が付いて愕然としたことがある。それは、霧立自身が他の演奏家の演奏を聴くときに、これまでずっとあら捜しをしていたということだ。
これは先ほどのカトー・ハヴァシュ氏の本で指摘されていたことだった。かなりショックだった。なんて意地悪な聴き方をしてきたことか…。
しかし、残念ながらクラシック音楽の聴衆は往々にしてこういう態度で演奏家をステージに迎えてしまうそうだ。特に、新人や自分の知らない演奏家に対して聴衆は厳しい態度でのぞむ。
演奏者が間違えないか、耳をそばだてて聴いている。(ああ、本当に最悪な聴き方だ!)そして自分の耳にかなった演奏家のみを「認めて」いくのだ。
こんな聴き方をするのは、クラシックの聴衆くらいだとカトー氏は言う。ロックでもポップスでも、普通お客さんは、その音楽を楽しむためにコンサートに足を運ぶ。批判するために来る人は稀だ。
彼女の指摘は本当に正しい。クラシック業界はゆがんでる、と思わずにはいられなかった。
そして、自分がそんな聴き方をしていることが、自分が演奏するときの緊張と結びついていることに初めて気が付いた。当たり前のことだ。
自分のような聴衆がじっとこちらを見つめて耳をそばだてていると、無意識ながらに感じてしまっていたのだ。緊張するに決まっているではないか!
それから、霧立は音楽や演奏そのものに対する考え方を少しずつ、変えていった。技術的には上手でない人や子どもの演奏の聴き方が変わった。
演奏の中に「その人自身」を探そうと思うようになった。それからは、どんな演奏も、楽しめるようになってきた。(プロの明らかな練習不足はいまだにさすがに楽しめないが…。)
霧立が演奏の時に少し緊張しなくなってきたことと、聴く態度の変化は少なからず関係しているような気がする。
おわりに
小さな自信の積み重ね、それから「楽しい」と思える経験の積み重ね、これがとにかく大事だ。
音楽の醍醐味は人と感動を分かち合うこと。それはとても贅沢な経験。霧立にははっきりとした長年の夢がある。それは、山小屋に住んで、そこで週末に音楽好きを集めてホームコンサートをすること。音楽とおいしい食事と素敵な仲間。そんな贅沢は夢のまた夢だけど、いつか実現するといいなと思っている。
そして、霧立の修行はまだまだ続く…。