
自由に遊べない子どもたち
自由は退屈
前回、子どもの才能を開花させるカギは自由な時間にあったということを書いた。しかし、自由な時間さえ与えれば、子どもは自動的にクリエイティブになれるのだろうか?
先月、私は時間を持てあましてとんでもないことをしでかした中学生に遭遇した。
1.放火!!
この夏(2018年)、イギリスはヒートウェーブのため例年になく乾燥していた。公園には芝刈りの後に放置されていた草が、カラカラに乾いてそこら中にあった。
その日、ユウと霧立が公園でテニスをしていたら、4、5人の中学生が暇そうにブラブラしていた。なんの当てもなく、明らかに時間を持て余していた様子だった彼らは、何を思いついたのか、枯草の山に火をつけたのである!
火はあっという間に四方八方に広がり、近所の人が消防車を呼ぶ騒ぎとなった。中学生たちは、放火直後に逃亡した。
2.嫌がらせと盗難未遂
放火事件の数日後、事件はまた同じ公園で起きた。ユウと霧立はまたテニスをしていた。そうしたら、これまた暇を持て余した中学生に嫌がらせを受け、ラケットバッグを盗まれかけた。
霧立が追いかけて取り返したが、とんでもない態度の中学生だった。(詳しくは「イギリスの中学生と対決した話ーウソをつかない子どもを育てるには」を参考に。)
暇をもてあます子どもたち
このような子どもたちに遭遇して分かったことは、ある子どもたちは自由な時間を与えられても、それを有効に使えないということだ。そして、暇を持てあますという状況では、どうも悪い方向にことが向かいがちだということだ。
なぜかというと、退屈している状況は欲求不満な状態であり、ネガティブマインドになってしまうからである。
「小人閑居して不善をなす」
とはよく言ったものだ。これは古今東西共通するらしい。
なぜ自由な時間を楽しめないのか?

では、一体なぜ自由な時間を楽しめないのだろうか?
それは、やりたいことがないからだ。心から楽しめることがないのである。これは、本当に不幸なことだ。
子どもは本来、好奇心が強くて色々なものに興味を持つ。ユウは庭でカタツムリを観察するのが好きで、平気で1時間くらいカタツムリを眺めている。
もちろん、彼が中学生になってもカタツムリを1時間見ているとは思わない。年齢に応じた関心というものがあるだろう。
ではなぜ、一部の子どもたちは関心や興味を失ってしまうのだろうか?
子どもの関心や興味を奪うもの
行動の規制
小さな子どもは本来好奇心のかたまりだ。先日バスの中で、私たちの斜め前に赤ちゃんが父親と乗っていた。その赤ちゃんは、もしかしたらアジア人を見たことがなかったのかもしれない。
ジーっと、ジーっと、ジーっと

私たちの顔を瞬きも忘れて見ているのである!
あまりにじっと見つめられて笑ってしまったほどだ。父親の方が恐縮したようで、ビスケットを渡して気をそらそうとした。それでも、その赤ちゃんはビスケットを食べながらも我々を見つめることを止めなかった。
赤ちゃんが人の顔をじっと見ていることなんて、ぜんぜん問題ではない。赤ちゃんにガン見されて気分を害する人などいないだろう。
しかし、もう少し大きくなって、水や草や土や空の容器…とにかく手当たり次第に触り、口に入れて観察するようになると、親はあわてる。
「ダメダメ、それは危ないからさわっちゃダメ!」
「お洋服が濡れちゃうでしょ。やめましょうね」
などと言って、子どもからそれを取り上げる。実はこれはモンテッソーリによると、一番残念な対処の仕方なのだ。
それは大人にとっては「迷惑な行為」でも、子どもにとっては「重大な仕事」だからである。子どもにはその時々(「敏感期」)に「自然から与えられた宿題」があって、それに全力で取り組むことが重要なのだ。
だから、子どもが何かに夢中になっている時は、出来るだけ介入せずに思う存分その「仕事」/「宿題」をやらせることが大事だ、とモンテッソーリは言っている。
もちろん、危険なことやどんなことでも黙認するといっているのではない。モンテッソーリが言うのは、「環境を整える」ということだ。
つまり、子どもが思う存分にその活動に取り組めるような環境を提供するといこと。例えば、いくら水に夢中だからといって、家中どこででも水遊びを許すというのではなく、お風呂場や庭というように場所に制限を設けたうえで自由にさせる、ということだ。
子どもは自分の関心や興味が満たされるまで、同じことを繰り返し、ある日急にそれを止める。完全に満足して、次の「仕事」に移っていくのである。
月齢に応じて与えらえる「自然からの宿題」を確実にこなしてきた子どもは、次の「宿題」に移ることが出来る。その子どもの中には確かな経験の蓄積があるから、より高度な「宿題」に取り組めるのである。
しかし、たびたび大人から介入を受けてきた子どもは、体は成長しても月齢に応じて必要だった「自然からの宿題」をやり残してきたために、その関心は行き場を失う。自分でも何がしたいのか分からなくなってしまう。
「退屈」は、このようにして生まれる。
iPadやタブレットなど

テレビを始めとるするスクリーン(iPadやタブレットなどの電子端末)は、刺激が強い。年齢が小さい子どもほど、依存や中毒になりやすいと言われている。3歳まではテレビを控えるように、と言われているのはそのためだ。
しかし、「スマホ育児」と言われているようにゲームアプリで遊ぶ子どもが増えている。イギリスでも夏休みなどの長期休みになると、子どものスクリーンタイムが急激に増えることが問題になっている。
結果として、子どもの健康状態のみならずメンタルヘルスの悪化が深刻だと言われている。オンラインゲームやインターネットに依存すると、能動的な思考が鈍くなる。クリエイティブな思考とは正反対な状態だ。
刺激の強いスクリーンに慣れてしまうと、読書はたちまち「退屈」なものになってしまう。特に活字だけの本は想像力が必要とされるが、スクリーンの強い刺激ばかりを受けてきた子どもたちは想像力が萎えてしまっている。
11歳にしてオペラを作曲したアルム・ドイチャーの家には、テレビもiPadもない。彼女は自然の中で風の動きや音に聞き入りながらスキップをしていると、メロディーが浮かんでくると言っている。スクリーンの刺激が、どれだけ子どもから想像力を奪っているかは明らかだ。(ちなみにアルムは読書家で、1年に100冊の本を読む。)
また、スクリーンの刺激に慣れている子どもたちには、自然の中でカタツムリを1時間観察するような気長さもない。大きな炸裂音を出すオンラインゲームのほうがカタツムリより「刺激的」なのは当然だろう。
「ゲームばかりしていないで、外で遊びなさい!」
と言っても後の祭りである。子どもたちにとって、自然はすでに色を失った「退屈な世界」になり果てているのだ。
今から大人が出来ること
子どもの邪魔をしない
子どもが夢中になっていることを邪魔しないこと。「自然から与えられた宿題」を全力でやらせること。その環境を整えてあげること。
大人が子どもにやってもらいたい「お勉強」は後になってからいくらでも出来る、くらいの気持ちでいることも時には必要だと思う。
スクリーンタイムをミニマムにすること
我が家はiPadもタブレットもユウに与えていない。テレビ装置はあるが、テレビは見れない。(イギリスではテレビを視聴するにはテレビタックスという税金を払わないといけない。そして我が家は払っていないので見られないという事情もあるのだが…。)
だから見るのは、世界の動植物や自然を扱ったBBCのDVDのみ。あとはテニスの試合を時々という具合。1日30分という約束だ。本人はそれで全然不満を感じていない。本に夢中になっていて、3か月くらい1回もテレビを見ない時期もあったくらいだ。
しかし、これまで長時間スクリーンにさらされていた子どもにとっては急激な変更は難しいだろう。その場合は、少しずつ時間を短縮していくというのはどうだろうか?
もちろん、初めはバトルが予想される。そうとうな抵抗と反発があるだろう。スクリーンの害悪をちゃんと説明しなければならない。
我が家も、30分を守らせるのが大変な時期もあった。
「そんなに守れないなら、テレビなんて捨ててやる!」
とマナブが怒った日もたくさんあった。
でも、子どもに屈することなくルールを決めて、そこに家族みんながサインをして壁に貼った。問題が再燃すると、そのルールの確認に戻った。何度も戻った。大変だった。
でも、その結果、今ユウはスクリーン依存とは無縁だ。自分の好きなことをよく知っていて、それに没頭できる子どもになった。
日も霧立がキッチンで夕食の支度をしているとき、隣で切り落としたサバの頭を手に取ってずっと観察していた。口から水を流し込んで、どうやって魚がエラを通して酸素を取り込んでいるのか、BBCのDVD “The Blue Planet”で見たサメの知識から確認をしていたという。よほど気に入ったらしく、
「その頭、とっといてくれる?」
と頼まれたほどだ。(臭いっつーの。)
おわりに
自由な時間を楽しめる子どもは、自分の好きなことを分かっている。
そして、自由な時間の中で生き生きとそれを発展させていくことが出来る。
そういう子どもは、一生人生を楽しめるのだ。