掃除を通しての公共スペースに対する責任感の育成
昨日に引き続き「ここがスゴイよ日本の学校!」シリーズをお送りする。シリーズ二回目の今日は、日本の学校の掃除教育について書こうと思う。
最近、一定数の保護者の間で学校の掃除が不人気らしい。理由は「疲れて勉強がおろそかになる」「時間の無駄」「掃除は不潔」などなど。
しかし霧立は言いたい。日本の学校の掃除の時間、これは間違いなく素晴らしい!と。これは海外で暮らすようになって、初めて気が付いたことだ。
また、国内の不評とは裏腹に、海外では日本の掃除文化は注目されてきている。シンガポールでは2016年から「SOJI(掃除)」を学校教育に導入しているという。
公共スペースは「ゴミ箱」のイギリス
よく日本に来た外国人は「日本はきれいだ!」と驚く。「きれいってどこが?」と、初めは意味が分からなかった。でも今は彼らの言う意味がよく分かる。
ストリートに落ちているゴミや犬の糞が圧倒的に少ない!
ということである。基本的に、「一歩家を出たら外はゴミ箱」と考えているのかと疑いたくなるような人がイギリスには結構いる。「それは大袈裟でしょう~」と思っている人のために、ここに実例を紹介しよう。
- 公園の入り口付近には、5mごとに犬の糞がある。
- ストリートは食べ物や食べ物が入っていたプラスチックの袋がそこら中に捨ててある。
- 人の家の垣根の中に空き缶やゴミをねじ込む。
- 人の家のフロントガーデンで犬に糞をさせてそのまま立ち去る。
- 公園や川にソファー、巨大なベッドマットレスや家電を捨てる。
- 飲んだビールの空き瓶を道路で叩き割る。
もちろん、イギリス人みんながこんなことをするわけではない。霧立の友人たちでこんなことをする人は一人もいない。ただ、こういうことをする人が、日本より確実に多い。
学校でも同じことが起こっている。トイレは教師の目を盗んで子どもの悪質ないたずらが横行する場所。トイレットペーパーをわざとトイレに詰まらせたり、便器以外の場所で用を足したり、というのは日常茶飯事らしい(小学校低学年)。
先日はトイレの雨漏りのために下にバケツを置いておいたら、バケツにわざとオシッコをした男の子たちがいたという。最悪だ。
また休み時間に食べるスナックも食べ散らかしており、袋菓子のゴミがそこら中に捨ててある。
このように、イギリスの公共スペースは「ゴミ箱化」している。
影の掃除夫
「でも、イギリスの町並みはきれいだったよ?」と思う人もいるだろう。観光地は随分マシだと思う。少なくともベッドマットレスや冷蔵庫をウェストミンスターやロンドン塔の前に捨てる人はいないだろう。そこには粗大ごみ回収費を出し惜しみするような人たちは住んでいないからだ。また、犬の散歩するような場所でもない。
問題が深刻なのは住宅地。それも労働者階級の人々が住む地域や、学校の通学路沿いの地域だ。霧立家の住むエリアは、徒歩5分以内に3つも学校があり、その全ての学校の通学路が我が家のストリート。「フロントガーデンゴミ箱化」が確約された地域だ。家を買う時は、そんなことを知る由もなかった。
しかし、毎日掃除夫がゴミ拾いに来てくれる。彼らがいなかったら一体どうなるのだろうか?考えるだけでも恐ろしい。
イギリスの学校の掃除
イギリスの学校では子どもたちは掃除をしない。ここでも掃除は掃除夫の仕事だ。
詰まったトイレも、汚いバケツも、きれいにするのは掃除夫。信じられないくらいの侮辱だ。彼らはお金をもらって働いているとはいえ、そんなことまでさせられるのは気の毒だ。
子どもがわざと汚した場合、教師は子どもに責任をとらせ掃除させるべきだと思う。しかし、「掃除=掃除夫がやるもの」という公式から抜け出せないでいる。それとも掃除をさせることが「体罰」や「労働」に当たると思っているのだろうか?
しかし、後始末をしたことのない子どもたちは、掃除夫の働きがどんなに大変か体験することもないまま大人になる。トイレは翌日には元通りにきれいになり、自分の捨てたストリートのゴミもなくなる。
「問題」が彼らの視界から消えるのと同時に、彼らは肩代わりしてくれた誰かの行為を「想像する力」も失っているのだ。
日本の学校の掃除
イギリスに比べて公共の場所を平気で汚す人が日本人に少ないのは、なぜだろう?最近は、ワールドカップで試合終了後に日本人サポーターが客席のゴミ拾いをしたことが、海外のメディアで称賛されていた。
霧立は、学校教育での掃除の時間に鍵があると思う。
後始末をするのは自分
先ほどのトイレでの悪質ないたずらは、日本の学校では起こりえないだろう。たとえある時、そういうことが起こっても、おそらく一回きり。掃除をする時に大問題になるからだ。
トイレ担当の掃除係は、真っ先に教師に通報するだろう。教師は誰がやったか突き止めるだろう。そして、その子どもが後始末をさせられるはずだからだ。その子どもはそれに懲りて、もう二度とそんな馬鹿な真似はしないはずだ。
そして、それはトイレ以外の場所でも同様の効果がある。校舎を使うのは自分たち、掃除するのも自分たち。なるべくきれいに使おうという気持ちが自然に出てくる。難しいことではない。
多くの日本人は、小学校から高校までの12年間、ずっとそうやって掃除教育を受けてきている。掃除する人の大変さを身をもって知っている。公共スペースに対する責任感が強いのは当然だ。
まとめ
結局、日本の学校は、授業以外の生活面でも教育が行き届いているのだろう。しかし、そこに教師の負担が隠されていることを見逃すことは出来ない。
小学校の教師はお昼の時間も賑やかな子どもたちと一緒。どれだけ大変かと思う。全然「昼休み」ではない。ランチタイムも「労働時間」だ。
掃除の時間も監督しなければならない。掃除の行き届かないところは手伝うことも必要だ。霧立が小学生の時はお昼休みに掃除の時間があった。まさに教師にとっては「昼休み時間ゼロ」という実情だったと思う。ブラックだわ、ホント。
イギリスでは教師にそこまで求められない。授業以外の教育は基本的に家庭に委ねられている。それでも家庭教育が機能していれば問題ない。
問題はそうでない場合だ。「ポイ捨て」が多いのが労働階級の人たちが暮らす地域に多いのは、その問題を示唆しているように思う。貧しい中でもモラルの高い人はいる。そういう人達は本当にすごいと思う。
しかし、そのような地区では一般的に荒んだ雰囲気が漂っている。ソファーやベットマットレスを平気で公園に捨てるような親のもとで、どうして公共スペースに対する責任を育てられようか?
イギリスは階級が固定化されている。自分の生まれた階級から抜け出すのはとても困難な社会だ。
近年、日本は貧富の差が広がっているという。しかしイギリスに比べたら、日本は公教育の幅広い教育機能のおかげで、まだ「変われるチャンス」を拾えると思う。
「掃除不要論」を唱える人たちは、掃除教育が子どもの人生や社会にもたらしている絶大な効果に気づいていないのかもしれない。
「ポイ捨て」が横行し自分の家の前がゴミだらけになること、公園や川がゴミ捨て場になることを受け入れられるだろうか?
教育の効果は長期的に見ることが大切だ。「疲れて勉強がおろそかになる」「時間の無駄」という人は、家庭でも子どもに掃除をさせないのだろうか?学校は塾ではない。教科学習だけが勉強ではないだずだ。
ロバート・フルガムは、そのベストセラーの著書の中で「人生で必要なことは全て幼稚園の砂場で学んだ」と言っている。そしてまた、「大人の条件」として「台所の生ごみを処理できる人」と書いている。(『気が付いた時には、火のついたベッドに寝ていた』より。)
霧立は、自分の子どもには汚い場所も進んで掃除できる、成熟した大人になってもらいたい。
【追記】
2020年、霧立一家は日本に本帰国した。ユウも始めて日本の学校に通う体験をしている。学校の掃除は、当然ながらやっている。それは結構なのだが、冷静に考えてみると、掃除を毎日そこまで時間をかけてやらなくてもいいのではないだろうか?というように思っている。