
ギドン・クレーメル(Gidon Kremer 1947-)。「巨匠」の地位を築き上げた、世界のトップ・ヴァイオリニスト。彼の演奏する「バッハの無伴奏」を聴いた時、私は度肝を抜かれた。
あんなに斬新でいて、しかも奇をてらっていない、そして説得力のあるバッハの演奏を、未だかつて聴いたことがなかったからだ。
クレーメルは、いわゆる「うっとり美しい音色」を聞かせてくれるタイプの演奏家ではないかもしれない。彼の音には、強烈な個性が刻まれている。緻密な計算から構築された演奏は、宇宙の調和を想わせる。
クレーメルのバッハを聴いてしまうと、どんなヴァイオリニストの演奏も物足りなく、色あせて聞こえた。どこか、ピアニストのグレン・グールドと通じるところがあった。
一体ギドン・クレーメルのこの音楽は、どこから来ているのか?
クレーメルの音楽の世界に引き込まれてしまった私は、彼の自伝やエッセーを紐解いてみたくなった。
不幸な少年時代
『ちいさなヴァイオリン』という自伝には、クレーメルの子ども時代の孤独、絶望、悲しみが切々と綴られている。あの深い音楽の向こう側に、こんな闇があったと思うと、読んでいて胸が痛んだ。
ギドン・クレーメルは、音楽一家に生まれた。祖父は偉大なヴァイオリニストであり、両親もプロのオーケストラのヴァイオリニスト。
幼い時に才能を見抜かれ、「職業」などという概念もまだない3、4歳の時に、両親によってプロのヴァイオリニストになるという将来が設定されたクレーメル。彼に選択の余地などなかった。
全てにおいてヴァイオリンが優先された。鼻呼吸が困難で外科的処置が必要だったにも関わらず(だからクレーメルは今でも口を開けて演奏をする)、また言語障害があったにも関わらず、練習の妨げになるといって治療をしてもらえなかった。
また、普通の子どもが持つような興味関心は一切否定され、クレーメルにとってはヴァイオリンの上達のみが、両親を喜ばせ、安心させた。
父親が、毎日何時間にもわたる厳しい練習を管理した。練習中の激しい衝突は日常茶飯事。クレーメルは、最終的には服従するしかなかったが、心の中は父親に対する反抗心でいっぱいだったという。

僕の理想と苦悩はヴァイオリンだった。僕は次第にヴァイオリンで、僕の孤独、僕の夢、僕の傷を音楽に変えることを学んでいった。
強烈な告白。私はクレーメルの音楽に魅せられた分だけ、彼の心の傷に触れた気がして、泣きたい気分になった。
また、「両親の不幸は、僕の子ども時代の雰囲気を決めてしまった」と自伝で書いているように、両親の不仲も少年クレーメルの心をむしばんだ。
激しい夫婦喧嘩は彼にとって耐えがたい苦しみだった。父親の感情の爆発に絶えず脅かされていたクレーメルは、「調和」に強い憧れを持ったという。
僕は早くに自分の内側の世界に引きこもり、もう十一歳や十二歳で非常に孤独で、疎外されていて、理解されていないと感じていた。
アイデンティティーの問題
ギドン・クレーメルは、一般に「ラトビア生まれのドイツ国籍」として知られている。しかし、実際はそこまで単純ではない。
父親には「ユダヤ人」としての強いアイデンティティーがあった。そのため、クレーメルは生まれてすぐに割礼を受け、また13歳になる時、バルミツヴァ(ユダヤの共同体に迎え入れられるための成人祭)のためにヘブライ語のテキストを暗唱させられた。まったくヘブライ語は分からなかったのにも関わらず。

その後、スウェーデン―ドイツ系だった母親のルーツから「スウェーデン人」という記載をパスに記載することにした。当時のソ連では「スウェーデン人」という国籍が有利だったからだ。
しかし、父親は「おまえが誰であるかを忘れないこと」と約束させた。ヴァイオリンだけでなく、アイデンティティーまでも父親から押し付けられたのであった。

クレーメルの父親がここまでユダヤ人であることにこだわったのは、彼がホロコーストの生き残りだったからだ。父親は、ギドンが「ユダヤ民族の悲劇の体現」していることが重要と考えた。
また同じ理由で息子にヴァイオリニストとしての成功を望んだのではないか?とクレーメルは推察している。ギドンが成功すればするほど、「こんなにも才能のあるユダヤ人が、ナチスによって抹殺されようとしていた」と世界に訴えることができるからだ。
僕はヴァイオリンの中に「自分の」音、「自分の」声部、「自分の」音楽を探しもとめた 。
ヴァイオリンに限らず音楽というと、「美しい音」「他の人の心に届く音」ということばかり追い求めがちだが、クレーメルが追究したのはそんな次元を遥かに超えていた。彼が「自分の音」を探し求めたことは、複雑なアイデンティティーの中で、「自分とは何者なのか?」ということを子供の頃から常に問い続けていたことと、無関係ではないはずだと私は思う。
共産主義下の学校教育

クレーメルは当時ソ連の一部であったラトビアのリガで生まれた。7歳から、リガにある有名な音楽学校に通った。
共産主義国の学校教育は、自由や独創性が評価される西欧諸国の教育とはまるで違う。ある時、作文の授業で「独自のスタイル」で表現しようと試みたクレーメルは、教師から理解されないばかりか「けしからん」とみなされた。
政治問題を口に出すことはもってのほか。友達との間でも、家庭でさえも「口に出してはいけない話題」というものを子供ながらに知っていたという。
黙ることは生活の一部だった。
と、クレーメルは振りかえっている。
教師は体制の歯車の一つにすぎず、カリキュラムを厳格に守ることに徹していた。自分自身のことは語らない教師と人間的なつながりを感じることはなく、学校は灰色で冷たい場所だった。
感情は無視された。音楽科目にも感情が存在しなかった。スコアはライトモチーフと七和音に分解された。感情の表出、強い感情とビジョンは語られなかった。でも僕はそうしたものを探し求めていて、興味を持っていた。僕は理念、確信を求めていた。一つのカテゴリーを強制しない、自由な領域を探しもとめていた。
クレーメルの類まれなる独創性、感情の表現、自由な解釈への渇望は、この抑圧の中でも消えることなく、かえってその内で深められ強まっていったのだと思う。
不幸な子ども時代が天才クレーメルを生んだのか?
「一体クレーメルの音楽はどこからきているのか?」という初めの疑問は、彼の伝記を読んで、哀しくも分かるような気がした。
不幸せな子ども時代、複雑なアイデンティティー、魂の自由が抑圧された共産主義の学校…。皮肉にも、すべてが天才ギドン・クレーメルを生む土壌になっていたかのように思った。
しかし…。天才が不幸でなければ生まれないなんて、そんなことがあるのか?いや、あっていいのか?それは、私には直ちには受け取れない仮説だった。
そこで、ふと私の頭に思い浮かんだのが、ジョシュア・ベル(1967-)だった。彼は、私の中でギドン・クレーメルと対極にあるアメリカ人ヴァイオリニストなのだ。ジョシュア・ベルの音楽は、とても華やかで、情熱的で、派手で、そして甘く、おまけに彼はハンサムで「スター」という言葉がよく似合う。
ジョシュア・ベルは、人気度からいったらギドン・クレーメルより間違いなく卓越していると思う。そのシルクのように滑らかで美しい音色は人を惹きつけるものがあるし、CDの売り上げ枚数もすごい。
「しかし」。だ。
ジョシュア・ベルのファンには申し訳ないし、素人の私が偉そうなことを言いたいわけでもないのだが、私にとって彼の音楽は「甘く美しい」以上のものではない。彼の音楽は、幸せな音楽。演奏から育ちの良さが透けて見えてくるが、深みはない(私にとっては)。
私のあの不条理な仮説は、当たっているのか?
そこで、初めてジョシュア・ベルの子ども時代を調べてみた(Joshua Bell Biography)。
ジョシュア・ベルは、父親は心理学者、母親はセラピストという中流階級に生まれた。ベルは、(クレーメルと同様に)幼い頃に音楽の才能を認められ、4歳からヴァイオリンを始める。
しかし、ヴァイオリンに本人が本気になる12歳まで、毎日の練習はたったの1時間。それまでは、親も本人も職業としてヴァイオリニストを意識したことはなかったという。
スポーツやテレビゲームが大好きで、特にテニスでは10歳の時に州の大会で優勝したという腕前。本人も「公立学校に行って、ごく普通の子ども時代を過ごした」と言っている。
私が予想していた通りの、幸せな子ども時代だった(―テニスの腕前を除いて―)。裕福な家庭、子どもの意志を尊重しサポートに徹した両親、好きなことを存分にやった楽しい子ども時代、自由の国アメリカ…。何もかも、クレーメルと正反対であることに気づき、予想はしていたものの、驚きを禁じ得ない。
ジョシュア・ベルの幸せで天真爛漫の音は、やっぱり幸せな子ども時代から生まれたのかもしれない。でも、たぶん、ベルは「スター」だけど、「巨匠」(マエストロ)にはなれない。私の仮説が正しいのだとしたら。
でも、不幸な子ども時代を送った人がみんな天才になれるわけでは決してない。苦しみや孤独から逃げずに向き合って、もがきながらそれを芸術という形式の中で昇華させることが出来る人は稀だ。
だから、苦しみを糧に天才と目される人物になれた人は、まだ幸せなのかもしれない。不幸な子ども時代を過ごした99.99%の人間は、心の傷をどうすることも出来ずに、その後の人生でも生きづらさを抱えることになるからだ。私の姉のように。
さて、人気者のジョシュア・ベルと、巨匠ギドン・クレーメル。幸せな人生を送っているのは一体どっちなのだろう…。
ベルの物足りないバッハを聴きながら、ふと考え込んでしまった。