配偶者のことを第三者を前にどう呼ぶか?
配偶者のことをどう呼ぶか?これほど人によって価値観の違いがハッキリ出る言葉も少ないだろう。ジェンダー意識がモロに出る領域の言葉だと思う。
ある人たちは、「そんなのただの言葉だよ。ジェンダー意識なんていう大げさなものではない」と思うかもしれない。
でも、言葉に鈍感でジェンダー意識が高いということはあまりない現象だと霧立は思っている。言葉はその人の価値観や思想そのものだからだ。たとえある人にとっては呼び名が「ただの言葉の問題」であっても、そこに抵抗を感じている人たちがいるということを知っていることは大切だと思う。
自分の配偶者
まずは自分の配偶者をどう呼ぶのか?ということを考えてみたい。
「主人」
これは年配の人に多い。しかしたまに自分よりも若い人が「主人」と言っているのを聞くと、ちょっとびっくりする。「主人」という言葉を聞いて霧立がまず思い浮かべるのは…
「奴隷」。
え?霧立大げさだって?フーム…。本当にそう思うんだけどなぁ、まあ、じゃ、百歩譲っても、
言うことを聞かないとおっかない人。
やたらと威張っている人。
犬にとっての飼い主。
とにかく、れっきとした「主従関係」がそこにある言葉。とにかく夫婦関係には相応しくないと思ってしまう。
「旦那」
これは比較的若い人たちに多いのではないだろうか?霧立がこれを聞いて連想するのは…
江戸商人。
「旦那ァ!今日は新鮮な鯛が入ってますよ!安くしときますよー!」という威勢のいい掛け声が聞こえてきそうだ。よく言えば相手を敬う言葉なのだろう。しかし、なんとなく経済的に優位な者に媚び入るような印象がある。
昔は、パトロンや妾の相手に使われていた言葉であったことからも、そこには「経済的優位性」を示唆するものがある。
そういった意味で、夫婦関係において商業的な関係や経済的優位性を示唆する言葉を持ち込むのは、なんだか妙な気がする。もちろん、今はそんな意味で使われているとは思わない。しかし、言葉が使われてきた歴史的背景が、その言葉の雰囲気というか「影」の部分を作り出すのは避けられない。
「家内」
文字通り「家の中にいる人」というのがそのそもの意味。男女雇用機会均等法を謳う現代には、なんだかそぐわない呼び方かも…。
「奥さん」
これも「家の奥にいる人」という意味で「家内」と似ているが、本来は他人の妻を敬って呼ぶ言葉。「深窓の令嬢」という言葉もそうだが、身分の高い女性はやすやすと外に出て来ない、という考えが昔はあった。そういうと聞こえはいいが、別の言い方をすれば、自由がなく家に束縛されていたのと同じ。
「嫁」
霧立の大学時代の友人でも自分の妻のことを「嫁」と言っている人がいるが、これは完全におかしいでしょ!あんたはもう「舅」になったのか!とツッコミを入れたくなることがある。
しかし、驚くなかれ、「親しい人の前で自分の配偶者をなんと呼ぶか?」というアンケートをとったところ、男性側の最多数はこの「嫁」だったのである!(「キャリコネニュース」より。)
「嫁」は相手の両親が自分の息子の配偶者を指していう言葉。いずれにしても、「家に嫁ぐ」と書く「嫁」という言葉は個人的にはあまり好きではない。こればかりは、他に言葉がないから仕方ないのだが…。
「夫」/「妻」
これは霧立にとっては一番しっくりくる。主従関係も、経済的関係からも解放されたニュートラルな呼び名だ。先ほどのアンケートで女性側の「希望する呼ばれ方」の第一位はこの「妻」。ちなみに実際に「妻」と呼んでいるのは男性側の10%に過ぎず、最下位。
(平安時代の)「男人」(をひと)の「ひ」が促音化して「をっと」となり、「おっと」になったとされる。
言語由来辞典
「おっと」が定着したのは室町時代だと言うから、配偶者の呼称としては、実は「主人」や「旦那」よりも歴史が長いことになる!
「主人」という呼び方は古風な感じがするが、「夫」のほうが実は歴史は古いのだ。
「パートナー」
霧立が住むイギリスでは、配偶者や付き合っている相手のことを「パートナー」と呼ぶ傾向が広がっている。
理由は次の通りだ。
① 完全に平等
お互いが独立した一人の個人であり、自分一人でも十分やっていけるし、幸せでいられることが前提。さらによい人生を送るために、一緒になることを決意したカップルの関係。
② 完全にジェンダーニュートラル
「主人」や「旦那」という明らかな不平等性がないのは当たり前、「夫」「妻」のような「性別」にも左右されない完全にジェンダーニュートラルな呼び名。
平等性という点からは、画期的な呼び方だと思う。でも「ビジネスライク」な感じがどうしても拭えないのは霧立だけだろうか?
というのは、「パートナー」というのは「ある目的達成のために一定期間お互いにコミットする関係」という意味合いで結婚外でもよく使われる表現だからだ。
「ビジネスパートナー」はもちろん、「カンバセーションパートナー」「コメディアンのパートナー」などなど。
夫婦というのは、人生において特別に重要で固有な関係であるのに、他の人間関係の一つに過ぎないかのような気軽さがそこにはある。
実際「今のパートナーはね…」という話し方をする人が結構いて、「パートナー解消はいつでも可能」的な雰囲気がある。もちろん、離婚という選択肢はあり得るが、そんな簡単でいいんですか!?と思ってしまう。
相手の配偶者をどう呼ぶか?
これが一番頭を悩ませる。自分の配偶者をどう呼ぶかは、簡単だ。霧立はマナブのことを「夫」と言うし、マナブは霧立のことを「妻」と言う。
しかし、相手の配偶者のことを「夫」や「妻」とは日本語では言わない。配偶者の名前を知っている場合、霧立は名前で呼ぶことにしている。名前が分からない場合は、「そういえば、みかちゃん、田中さん元気?」などと苗字で呼ぶ。これでたいがい通じる。
しかし、名前も分からないような時。これは一番頭がいたい。日本語には昔から「夫君」「細君」という美しい言葉があるのに、なぜか現代ではあまり使われていない。霧立は文面では「夫君」「細君」と書くが、これは会話の中では通じないことが多い。「え、誰?フー君?」といつも聞き返されて説明するのも不自然なので、ほとんど使えない。
「パートナーの方」というのも日本では定着していない。
「配偶者の方」と言うこともあるが、役所の窓口担当みたいで少々堅苦しい。仕方ないから、男性には「奥様は~」と言い、女性には「旦那様は~」と言う。自分としてはおかしいと思っているがゆえに、敗北感を感じながら。
おわりに
霧立は別に、「その言葉の本来の意味は〇〇なんだから、そう使うべきでない!」とイチイチ噛みついているわけではない。
例えば、日本語では緑のことをしばしば「青」と表現するが、それに反対して「『青信号』じゃなくて『緑信号』でしょ!」とか「『隣の芝は緑』でしょーが!」と言うつもりはない。緑を青と表現するのは日本語の文化だ。誰も傷つけない。
しかし、事柄が人権やジェンダーの問題になると、たとえ使っている人に悪気がなかろうとそれは問題だと思う。
例えば、インスタントカメラのことを「バカ〇ョン」と言ったり、女性と子どもを指して「女子ども」と表現するのはやはりまずいと思う。
人権意識と言葉に対する敏感さは表裏一体。自分の配偶者の呼び方は、夫婦の間で問題がないなら他人がとやかく言うことではない。でも、先ほどのアンケートでは、女性側の「希望する呼ばれ方」と「実際の呼ばれ方」でギャップがあることが明らかになった。(ちなみに、男性側の「希望する呼ばれ方」の一位は「主人」…。)
そして、他人の配偶者をどう呼ぶか?これは本当に難しい。いくら男性側が「主人」と呼ばれたいからって、「ご主人様」ですかぁ…。それはご家庭内だけでちょっと勘弁してもらって、「ご伴侶」というのはどうだろう?
伴侶(ハンリョ)
一緒に連れ立って行く者。つれ、仲間。また配偶者。
うん、なかなか清々しい言葉ではないか。しかもジェンダーニュートラル。配偶者の名前で呼ぶのがベストかと思うが、名前が分からない場合はこの「ご伴侶」という言葉を使っていこうかなと霧立は思う。初めはちょっと「はっ?」という顔をされるかもしれないが、使っていくことが大事!
あ、でも今、家族以外と日本語話す機会、全然ないことに気が付いた…。
いかがでしたか?ここまで読んでくださった方は、それなりに配偶者の呼び方に関心がある方たちだと思います。これからはLGBT(性的マイノリティー)のことを考えると、必ずや壁に当たる問題だと思います。イギリスで「パートナー」という呼び名が広がっているのも、そのことと無関係ではないでしょう。この記事が、議論の材料になれば幸いです。