霧立はアマチュアのヴァイオリン弾きである。4歳からヴァイオリンを習い始め、いつもヴァイオリンは自分の身近にあった。
でも、プロを目指したことは一度もないし、これまで使っていた楽器もアマチュアには十分すぎる楽器だったから、ヴァイオリンを買い替えるなんて、夢のまた夢だった。
というのは、ヴァイオリンは最も高価な楽器だからである。今日は、私がヴァイオリンを買い替えることになったいきさつについて書いてみたい。
ヴァイオリンを買うために母が遺してくれたお金
私が一番欲しかったもの
「灯、お母さんが死んだら、遺産で何が一番買いたい?」
「そうねー。新しいヴァイオリン!」
「ヴァイオリン?いくらくらいの?」
「そうだなあ…、300万、いや400万円くらいあると、きっといいのが買えるんじゃないかなぁ。」
「そう…。大丈夫、400万円くらいなら十分遺してあげられる。じゃあお母さんが死んだら、きっといいヴァイオリンを買いなさい。」
十年位前、まだ体調が良かった時に母とした会話である。
今思うと、なんて会話だったんだろうと思う。母はどんな気持ちで聞いていたのかと思うと、自分の無神経さに凍り付く。
母は長年難病を患っていて、それでもわりと普通に過ごしていたものだから、私は死を近い将来来るべきものとして考えていなかった。それとも、現実のものとして考えるのを無意識に避けていたのかもしれない。
恐らく、その両方だ。
でも、母はいつも死を見据えてそれに備えていた。たびたび、お葬式はどうやってもらいたいとか、讃美歌はどれを歌ってもらいたいとか、お墓ではなく散骨してもらいたいなどと、死後の希望を日常的に私に伝えていた。
だから私は、この時の会話もその一つに過ぎないと思っていた。
そして母は、その数年後、天国に帰った。
まだ62歳だった。
ヴァイオリン資金
私たち一家は、その翌年イギリスに引っ越した。
日本にいると、いろんな場所に母との思い出がしみ込んでいて、どこに行っても母のことを思い出し、私はそれがとても辛かった。だから、日本を脱出してイギリスに来た時、悲しみの沼からやっと抜け出せた気がした。
母が残してくれた遺産は、イギリスでの住宅購入で殆ど全て使ってしまった。きっかり400万円だけ残して。
生活は楽ではなかったけれど、このお金だけは日々の生活費に使ってしまうわけにはいかなかった。一生自分の手に、母の思い出として持っていられる物のために使いたかった。
あのとき約束したヴァイオリン。
私はブランドのバッグや洋服には関心がなかった。もちろんヴァイオリンの値段はバッグや洋服とは比べ物にならないくらい高い。
しかし高価な宝石よりも何よりも、素晴らしいヴァイオリンが欲しかった。そう、もうずっと。何十年もの間。
でも、ヴァイオリンはすでに子どもの頃から弾いてきたものを持っていたし、それはそこそこ鳴る楽器だった。アマチュア奏者には十分な楽器。そういった場合、音大に行くとか、プロでない限りヴァイオリンを買い替えるという機会は、なかなかないものだ。
なぜかというと、
① ヴァイオリンのような弦楽器は他の楽器と違って劣化しないからだ。ちゃんとメインテナンスしていれば、100年でも200年でも余裕でもつ。
② また、ヴァイオリンは他の楽器に比べて非常に高価だからだ。買い替えるからには、手持ちの楽器より優れた楽器を買わなければ意味がないわけで、そうするとかなりまとまった資金が必要になる。
そんなわけで、アマチュア演奏家が楽器のグレードアップをするのは、よほど資金的な余裕がない限り難しいのだ。
母の遺産がなければ、私も一生ヴァイオリンを買うことなど出来なかったはずだ。家族の入用はいくらでもある。自分の趣味のためだけに何百万円も使うわけにはいかない。
実は遺産としては最高の使い方
そういった意味で、母の遺してくれたものは、またとない、そして素晴らしい恵みとしか言いようのない贈り物だった。
それに、先ほど触れたように、ヴァイオリンは何百年でももつ。また上質なヴァイオリンは上手に弾き継がれていけば、歳月とともにむしろ円熟して音質も向上していく。
私はお婆さんになっても弾けるまで弾き続けるし、もしユウが弾いていればその後は彼に譲れる。ユウがたとえヴァイオリンを弾いていなくても、彼の子どもがやっていれば、つまり私の孫が私のヴァイオリンを受け継ぐことが出来る。
私は弾くたびに母を想うことが出来るし、それを子どもやそのまた子どもに譲れるとしたら、本当に夢がある家宝になる。音楽に刻まれる家族の歴史。
「遺産で何を買いたい?」と母に尋ねられて「ヴァイオリン」と即答してしまった自分には呆れるが、遺産の使い方としては、実はとても素晴らしいんじゃないかと思っている。
追記
2018年春。
私は素晴らしいヴァイオリンを手に入ることが出来た。50本以上弾いて選び出したのは、ちょうど100年前にイタリアのヴェニスでEttore Siegaという人によって作られたヴァイオリン。
濃淡のあるキャラメル色をしたこのヴァイオリンは、とてもハンサム。イタリアの楽器特有の、甘くふくよかな音がする。
まぎれもなく、私の一番の宝物。
これまでヴァイオリンに全く興味を示さなかったユウ(8歳)が、なんとその年の夏からヴァイオリンを始めた。私のヴァイオリン選びに同行して見ているうちに、ヴァイオリンという楽器の奥深さに惹かれたらしい。
プレッシャーは与えたくない。でも、もし好きで続けるならば、いつか私がこの楽器を彼に譲れる日が来るだろう。