罰が子供の「しつけ」になり得ない理由:モンテッソーリが教えてくれたこと
教育の場面ではよく「アメとムチを使い分ける」などと言われる。先日、「ご褒美(=アメ)が子どもをダメにする」という記事を書いた。今日は、もう一方の「ムチ」(=「罰」)が子どもに与える深刻な弊害について書いてみたい。
子育てにおける「罰」とは何か?
「罰がいけないのなんて、当たり前でしょ?」と思う人がいるかもしれない。確かに、体罰のようにあからさまなものは最近の子育てではタブー視されるようになった。霧立が子どもだった30年前は、学校の教師による体罰も黙認されていたから、これは大きな変化だ。
しかし、罰には色々なバリエーションがあって、体罰のようにあからさまでない罰もたくさんある。まずは、一体どんな種類の「罰」があるか考えてみよう。
子育てにおけるご褒美と罰の弊害を説いている教育学者、Alfie Kohnによると、
「罰」とは、望ましくない行動をやめさせるために、子どもに肉体的・精神的苦痛を与えること
と言えそうだ。
もっと具体的に言うと:
- 体罰(「お尻ペンペン」を含む)
- 怒鳴りつける
- タイムアウト
- 親が立ち去る
- 無視する
- 子どもから何かを取り上げる
といったところだ。
4の「親が立ち去る」というのは、比較的年齢の小さな子どもに対して行われる罰で、「そんなことしているなら、お母さん行っちゃうよ!」などと言って子どもを放置することである。家の中でも別室に行ってしまうなど。
6の「子どもから何かを取り上げる」というのは、「XをしないのならYはあげないよ」ということ。例)「お父さんの言うことが聞けないのなら、今度〇〇に連れて行ってあげない!」
体罰はしないまでも、「それくらいなら心当たりあるな…」というものが意外にあるのでは?
子育てにおいて罰は効果がない
交通違反の罰金の効果
一般社会では、ある程度の「罰」は効果があると言われている。交通違反の罰金などはそのいい例だろう。
前回、「ホグワーツ・エクスプレスに乗ってきた!」の記事の中で駐禁をとられたことに触れたが、その時霧立は「次は絶対、確認してから駐車する!」と強く思わされた。
しかし、それは「二度と罰金を取られたくない!」という一心からであり、別に駐禁を心から悔い改めたというわけでは全然ない。
つまり、罰は表面上の行動を変えることはある程度出来るが、人間の心の中まで変えることは極めて難しいのだ。「ある程度」という保留つきなのは、「見つからなければいい」という発想に容易につながり、見られていないと分かったら平気で違反をする可能性が高いからだ。
子育てにおける罰の効果
しかし、子育てで私たちが目指しているものは一体なんだろう?
まさか、子どもの表面上の行動を取り締まることではあるまい。損得勘定で動く人間に育てたいと思っている親はいないだろう。
「自分でよく考えて、自分や他の人、自然や社会に対してよりよい選択をしていかれる、良心と愛情と勇気のある人間に育ってもらいたい」と思うのではないだろうか?少なくとも霧立はそうだ。
行動分析学者のB.F.スキナーは、鳩やチンパンジーの実験結果から「タイムアウト」の効用を世に知らしめた。1958年のことである。それが瞬く間に世界に広がり、教育に応用されるようになり、タイムアウトはいまだに「子育てのしつけの王道」だとされている。
しかし、当然ながら子どもは鳩やチンパンジーではない。罰は表面的に、一時的に効果があると言われているだけだ。罰は恒常的に、しかも強化して与え続けられなければ子どもをコントロールすることは出来なくなる、という負のスパイラル的性質を持っている。
子育てにおける罰の弊害
では次に、どうして罰が子どもに悪影響を及ぼすのかについて考えてみよう。
力による問題解決の正当化
親は、子どもにとって一番大切な存在であり、全てのお手本だ。その親が、問題を解決するために圧倒的な権力(=罰)を使い、否応なしに子どもを従わせていればどうなるか?
そのように育てられた子どもは、弱者に対して同じような態度をとっても構わないと思うようになる可能性が高い。
罰はエスカレートする
子どもが大きくなるにつれ、子どもを懲らしめる方法を考えるのはどんどん難しくなってくる。「〇〇しないと、お母さん行っちゃうよ!」といったり「自分の部屋に行ってなさい!」とタイムアウトを命じても、10代の子どもにはへっちゃらである。
そうすると、言うことを聞かせるためにはもっとヒドイ罰を考えなければいけなくなってしまう。これでは「しつけ」どころではない。
「しつけ」というのは本来、子どもがよい人間になるように親がサポートするものだ。子どもを十分懲らしめられるよう罰をエスカレートさせることがその手段というならば、「戦略」を誤っているのは明らかだ。
親子関係を傷つける
子どもにとって、親は一番大好きな存在。一番頼ることが出来る存在だ。そんな親が、ひどい罰を与えるとしたら子どもは一体どれだけ傷つくことだろう。
ある親は、罰として立ち去るそぶりを見せると、子どもはすぐさま言うことを聞くようになったという。しかし、「その時の子どもの目に映った恐怖の色を忘れることが出来なかった」と言っている( Alfie Kohn “Unconditional Parenting”)。
大人にとっては大したことがなくても、小さな子どもにとってはそれはとてつもなく大きな恐怖であり、耐えがたいことなのである。
そして、子どもが大きくなれば親への不信感、嫌悪感もそれに加わる。
罰は子どもに反省を促さない
「罰を与えたら子どもは心を入れ替える」と本気で思っている人はいるのだろうか?
霧立は、ユウが7歳の頃、タイムアウトを命じたことがある。しばらくたって、部屋をのぞいてみたら…ベッドに入って本を読んでニヤニヤ笑っていたのである!
霧立:「で、何か考えたの?」
ユウ:「え?なに?なにか考えるんだったの?」
タイムアウトを与えても、子どもは一人で反省などしない。本を読んだり、おもちゃで遊びだすのが関の山だ。
霧立は10代の頃、「楽しみにしていたものを取り上げらえる」という類いの罰をよくくらったものだ。これには本当に腹が立った。友達とどこかに遊びに行く計画を、おじゃんにされてはたまらない。
そこで考えついたのは、遊びに行く直前までその計画を秘密にするということだった。1か月間から親に知られたら、一か月間「いい子」にしていないといけない。そんなの絶対ムリ!
だから、せいぜい5日前くらいの告知にして、その5日間とにかく慎重に過ごすのだ。それでも多感な10代の頃は感情をコントロールできず親の逆鱗に触れることを言ったりしちゃって、おじゃんにされたことがあった。(アホや、霧立…!)
その時は本当に本当に親が憎たらしくて、反省なんてマイナス100%もなかったものだ。
罰は子どもに反省を促さないばかりか、時には親に対する憎しみさえもたらす。
罰に代わる「しつけ」
霧立家では、出来る限り罰を排除する努力をしている。(といっても、こちらも人間なので失敗してしまうこともまだあるのだが。)
我が家では、ユウが何か「問題行動」を起こしたとき、それに直接関係のあることがらで責任を取らせるようにしている。これは実際、モンテッソーリの先生に教わったやり方だ。
【例1】
「ユウが老犬のみかんをわざと突き飛ばして転倒させた。」→「リビングルームは誰もが気もち良く過ごせる場所でなければならない。それが出来ない人はその場にいられない。」→「自分のお部屋に行ってください。」
一見、タイムアウトと同じなのだが、リビングルームにいられない理由がちゃんと示されている。リビングルームがどういう場所で、どういうことに配慮しなければいけないのか、ということを教える。
これが、「みかんを突き飛ばして転倒させたから、今日はTVは見ちゃダメ!」だと、それは罰になる。みかんを転倒させたこととTVは何の関係もないからだ。
【例2】
「ピアノの練習中に、弾けないところをもっとゆっくり練習するようにとマナブが言ったら、今度はわざとアホみたいにスローなテンポでこれみよがしに弾きだした。」→「お父さんはユウが上手になるように教えてあげようとしているのに、ユウに聞く態度がないなら教えられない」→「その態度を変えないなら、今日はもう教えられない。あとは自分で練習してね。」
ここには、「教えようとしているのに、聞きたくないなら教えられない」だから「一人でやってね」というつながりがある。
これが、「そんなに態度が悪いなら、もう今月はお小遣いなし!」だと、それは罰になる。練習態度が悪いのとお小遣いは何の関係もないからだ。
気を付けなければならないのは、これを威圧的な態度でなく冷静に伝えるということだ。そうでないとやはり「罰」を言い渡されたように子どもは感じてしまう。
このやり方でずっとやってきているから、ユウも自分の態度の何が問題で責任を取らされているのかよく分かっている。
この間、霧立が頭にきて、つい全く関係ないことをユウに押し付けてしまった時があった。そうしたら、
「なんで?それはぼくがやっちゃったことと、かんけいないでしょ?」
と泣きながら訴えられてしまった。
全くその通りだった。
霧立は自分の言ったことを撤回せざるを得なかった。
こう考えてみると、「罰」というのは親の怒りのはけ口でしかないんじゃないかと改めて思う。「しつけ」というならば、表面的な行動の修正ではなく、本当に子どもに正しいことを教えられないとダメだ。もっと言うなら親がそう教えているだけじゃダメだ。子ども自身が心からそれを学んで、初めて「しつけ」となるはずだ。
ご褒美を与えないことより、罰を与えないことのほうが霧立にとってはチャレンジだ。子どもにとって親は絶大な権力を持っている。だからこそ、その権力を乱用しないように慎重にならなければならない。今回ブログを書いていて、また自戒するよい機会になった。