ご褒美が子どもをダメにする:モンテッソーリ流の子育て
先日、「うちの子がモンテッソーリ教育から受けた6つの影響」について書いた(詳しくはこちら)。その中で、うちのユウ(8歳)が外部の評価に無関心であることに触れた。
なぜモンテッソーリ教育で育つとなぜ外部の評価に無関心になるのだろうか?
それは「ご褒美を与えない」というモンテッソーリの教育観と深く関係している。
今日は、なぜモンテッソーリ教育ではご褒美を与えないのか?ということについて書こうと思う。
物質的なご褒美
「静かにお話を聞いていられたら後でお菓子をあげる」
「次のテストで10位以内に入ったら携帯を買ってもらえる」
「これを手伝ってくれたら〇円あげる」
「いい子にしていないとサンタクロースは来てくれない」…
うんざりするほど、この社会では「モノ」で子どもを釣ろうとする。
しかし、モノで釣ったとたんに、実は子どもが取り組んでいること自体の価値を減少させているのである。
先ほどの具体例で説明するとこんな風になる。
- お話を聞くことは、お話の内容に耳と心を傾けることに意味があるはず。→とにかく静かに座ってればOK.
- テスト勉強するのは、学ぶこと自体に価値があるはず。→「勉強はつまらない」から携帯というビッグなご褒美が必要。
- 家事の手伝いは家族の一員としての責任感や家族を思いやる心を育てるべきもの。→お金がないと動かない人間に。
- 人間としての成長はそれ自体で素晴らしいことなのに…→サンタクロースからプレゼント(=物欲)をもらいたいから「いい子」になる。人間としての成長とは全く別次元のベクトル。
こうやって書くとあからさまなのだが、多くの人は気づいていない。
小さな頃からこの「ご褒美」に慣れてしまうと、子どもの動機付けは「じゃあ、それやったら何くれるの?」という思考方式になりがちだ。
子どもにとって大変なことを、ご褒美で励まそうとする気持ちは分かる。でも、ご褒美を提示したとたんに、そのこと自体の意味や価値から子どもが目をそらすようにしてしまっているのだ。
称賛という言葉のご褒美
モンテッソーリ教育では、過度に子どもを褒めることを控える。
「ええ?子どもを褒めることはいいことじゃないの?」と驚く人もいるかもしれない。多分、日本より欧米文化のほうが子どもを褒める文化が定着しているので、日本の一般的な状況とはちょっと違うかもしれない。
欧米では、とにかく子どもを褒める。褒めちぎる。
“Well done! Fantastic! Brilliant!!” (「よくやった!素晴らしい!最高!」)
と最大級の賛辞で褒めているのだが、先生の顔を見るとそこまで感心しているように見えないこともしばしば。誉め言葉の乱用で、称賛もデフレ気味…。
とにもかくにも、親も教師もやたらと褒める。それは、褒めることによって子どもにその行動を促そうとしているからだ。
物質的な「ご褒美」よりはあからさまでないため、言葉による「ご褒美」は見逃されがちだ。しかし、これも子どもの動機を本質からそらすという同様のネガティブな効果があるのだ。
簡単に言うと、
「本当にそれがやりたいからではなく、親や先生に褒められたいから〇〇をする」
ということになる。
誉め言葉で子どもをコントロールする、という点では物質的な「ご褒美」とまったく同じであることが分かると思う。
子どもは何か大きなことを達成したとき、自分の中にすでに大きな喜びと充実感がある。それこそが大事であり、それこそが、次のステップへ子どもを向かわせる動機となるべきだ、という強い信念がモンテッソーリにはあった。
もちろん、自然に出てくる称賛の言葉はいいし、制限するべきではない。しかし、子どもをもっと頑張らせるためにわざと大げさに褒めることには、否定的だ。
外部の評価に無関心
ユウが過度に褒められても全く喜ばないのは、このような物質的ご褒美や言葉によるご褒美に接してこなかったからなのかもしれない。自分がやり遂げたことに対する充実感と喜びがあるので、外的なご褒美は必要ないのである。
イギリスでは、予防注射をした後に看護師が「頑張ったわね!ご褒美よ」とステッカーや小さなおもちゃを選ばせてくれる。しかしユウは、
「なんで?なんでそんなものをくれようとするの?…ボク、いりません」
と言っていつもスタスタと帰って来る。驚いた顔の看護師にも、霧立も慣れた。
注射はユウだって嫌だ。しかし予防注射は、怖い病気から自分を守ってくれるものと知っているので、注射が済めばそれでいいのだ。ユウにとっては、注射とステッカーやおもちゃの関係が全く分からないのだ。
ご褒美は子どもの心を「囚人化」する
次に、ご褒美が強力なコントロールに結びつき、子どもの自主性を奪うことを例をもって説明したい。
ユウの公立学校では、移動教室の時に静かに移動させるために”secret girl”と’secret boy”を毎回くじ引きで選ぶという。誰が”secret girl”と” secret boy”なのかは、教師しか分からない。
そして、移動先の教室まで行くときに、その2名の子どもが静かに出来たら、その子どもが属しているハウスにポイントが与えらえれる、という仕組みになっている。(ハウスポイントについてはこちら。)
初めてそれを聞いた時、霧立が真っ先に思い出したのは
パノプティコン
(一望監視装置)
パノプティコンは、18世紀に功利主義者ベンサムによって設計された円形の監獄。中央の監視塔からは360度囚人たちを見渡せるが、囚人たちからは監視塔の中を見ることが出来ない仕組みになっている。
看守はもしかしたら監視塔にいないかもしれない。しかし、いるかもしれないから囚人たちは「見られているかもしれない」という意識を絶えず持つことになり、刑務所側は効率的に全囚人を時には無監視状態でも監視できるというトリックになっている。
話をもとに戻そう。移動教室の時、生徒(=囚人)は、教師(=看守)が誰を見ているのか分からない。だから否応なしに、クラス全員が静かに移動することが求められるのである。
刑務所と違うのは、”secret girl”と” secret boy”が教師の目にかなったら、ハウスポイントというご褒美をもらえるということだ。
この例はとても露骨だが、ご褒美とは子どもをコントロールするための道具であり、それは子どもの自主性を奪うものでしかないことが分かる。
「ご褒美中毒」に陥る子どもたち
囚人は、服役を終えて牢獄を出ても、一般社会に馴染むことが難しいと言われている。再犯率も高い。それは、外的コントロール(=懲罰)のない一般社会に出たとたん、どうしていいのか分からなくなってしまうからだ。
刑務所の中では生活のすべてがコントロールされている。自由がないとはそういうことだ。自分で考えなくても、生活できる。しかし、外的コントロールに頼ることに慣れすぎてしまった結果、自分で考えたり、自分を律したりすることが困難になるのだ。
先ほどの「パノプティコン式教育方法」だが、肝心の効果のほどをユウに聞いてみた。すると、
「そんなことやっても、ちゃんとしない子はちゃんとしないヨ」
とのこと。
ご褒美という外的コントロールは、常習的に与え続けないといけないばかりか「耐性」が付きやすい。そういった場合、もっと大きなご褒美が必要になる。(あるいは「罰」という負の外的コントロールが必要になる。)
ここまでくると「ご褒美中毒」である。
あの手この手のご褒美を教師は考えるが、際限がない。そして、ご褒美で子どもをコントロールすればするほど、子どもは自分で考えたり、自分で自分を律する力を失っていく。なんとも恐ろしいことだ。
ご褒美という外的コントロールがいかに無意味であるばかりが、弊害であるということがよく分かると思う。
家庭や学校は「監獄」であってはならない。「ご褒美」という一見たわいもないものが、どれだけ子どもをダメにするか、モンテッソーリは知っていたのである。
子どもをコントロールするのではなく、自分で考え律していけるようにするのは大変だ。そのためには、親自身が「そのものの中に意味や価値を見出す」ということに尽きると思う。
子どもが描いた絵をよく見もせずに褒めちぎるのではなく、子どもの取り組み自体に親もじっくり目を注ぎ、その物自体の中に意味や価値を見出す姿勢を付けたい、とつくづく思う。
最後に、ユウの通っていたモンテッソーリ幼稚園・小学校の校長先生に勧められた本を紹介して終わりにしたい。これは「褒めること、また罰を与えることの弊害」についてかなり詳しく書いている。英語版しか見当たらなかったのだが、英語が読める人には本当におススメだ。霧立が、これまで読んだ中で一番教えられることの多かった子育て本である。