ヴァイオリンの弓選びをしている人ならば、誰でも一度は憧れるのがフランス製の弓。「ヴァイオリンがイタリア」なら「弓はフランス」、というのが「最高品質の証」であるかのように信じられてきたからである。
霧立もそうだった。しかし、困ったことに予算内で素晴らしいと思えるフランス製の弓になかなか出会えないのである。
一方、予算よりずっと安いために注目すらしていなかったドイツ製の弓の中に、有名なフランス製の弓よりずっと秀逸な作品があることを体験した。価格はフランス製の1/4…。
さすがにここまでくると戸惑う。なぜこんなことが起こるのか?
ドイツ製のバイオリンの弓はなぜコスパ抜群なのか?
大量生産が仇となる
価格は需要と供給のバランスで決まる。もし、需要より供給が多かったら、その物の価格は下がるというものだ。
ドイツ製の弓にもこの経済原理が当てはまる。ドイツでは、過去200年にわたって安価なヴァイオリンや弓を大量生産し、世界中に輸出してきた。
日本の一般的な楽器屋さんで一番多く売り出されている類の楽器である。このような楽器は、一つの工房で丁寧に作られた手工芸品の楽器とは全く異なる。
こうしてドイツの楽器は希少価値を失い、不名誉にも「安価な楽器」という地位を確立してしまったのである。
ブランド力を失った上質なドイツ製の弓

ブランディングはとても大事。このロゴの付いてないフェラーリは、「フェラーリ」ではないのだ。
ドイツの素晴らしいマエストロたちもまた、「ブランド力」を作り出すことに失敗してしまった。
彼らは自分の工房を構えると、あらゆる客層に対応するために、一級品だけでなく様々なクオリティーの楽器を作り出してしまったのだ。その試みじたいは悪い事では決してない。しかし、そのような廉価楽器には、マエストロの最良の技術は反映されていない。
「弓のストラディバリウス」と言われているトルテは、全くその逆。自分の納得のいかない作品は全て破棄し、工房から1本も外に出さなかったと言われている。
その完璧主義、厳しい品質管理が、トルテの弓を「世界最上の弓」にまで高めたのは間違いないだろう。

これがトゥルテ…なんか、イメージ違うな…。完全主義者って言うより、気のいい農家のおじさん風。
また、20世紀に入るまで、ドイツの優秀な弓製作家たちはしばしば自分の作品に刻印せずに、ディラーに売っていたという。(普通は弓の根元のスティック部分に、製作者の名前が刻印されている。)
なんで、そこでスタンプ押さないのよぉ~!!
実にもったいない話である。
そんなこともあって、ドイツの弓の中には、製作者の特定が困難な物も少なくない。簡単に言えば、目に見える「ブランド力」が低い弓が多いということだ。
残念なことに、多くのドイツの弓製作者たちは、目先の商売のことを優先した結果、長期的なマーケティング戦略に失敗してしまったのである。
ドイツの卓越した弓製作者たち
それでもドイツの弓製作者の中に、卓越したマエストロがいたことは紛れもない事実。中には、有名なフレンチボウにも引けをとらない弓があると言われている。
それは、Knopf、Bausch、 Nürnberger、そしてPfretzschnerという歴代の弓製作家ファミリーである。(興味のない人はどうぞ読み飛ばして下さい。)
Knopf
5世代にわたり、14人の弓製作者を生み出した。最も名高いのは、 Heinrich (1839–75)。彼は、「ロシアのトルテ」の異名を持つNikolaus Kittleに雇われていた時期もあったと言われている。
Knopfの弓を特定するのは困難だ。刻印をしていない弓が多いこと、他の製作者とお互いに作品を融通しあっていたことなどが原因だ。
しかしKnopfの最良の作品には、”H. Knopf Markneukirchen”あるいは、”H. Knopf Berlin”(大文字)と刻印されているものがある。
Ludwig Bausch (1805–71)
彼もまた、Kittleに雇われていたと言われている。彼の弓は、 “L. Bausch”、”L. Bausch”あるいは “Leipzig”(大文字)と刻印されていることが多い。
しかし、20世紀ごろ、彼の名前が刻印されたニセモノが出回った結果、Bauschの弓の評判は下がってしまった。ちなみにニセモノは、”Bausch”の名前が小文字で刻印されているものが多いとのこと。
Hermann Richard Pfretzschner (1857–1921)
フレッツィナーは、フランスで一時期修行し、その技術をドイツに持ち帰った。その時代でとりわけ傑出したマエストロだったが、彼もまた刻印せずに弓を卸すことが多かった。

プレッツィナーのスタンプはこんな感じ。名前だけでなく、黒檀の部分にも刻印があるのは珍しい。
多くの優れた音楽家を顧客にしていたフレッツィナーは、顧客の好みや演奏スタイルを考慮して弓を作ったという。これぞ究極の「オーダーメイド」。
フレッツィナー・ファミリーは、現在でも弓製作にたずさわっている。
Nürnberger family
ニューンベルガー・ファミリーは、おそらく世界で一番長い歴史(300年以上)を持つ弓製作の一族。今でも6代目が弓制作を続けている。
300年以上もずーっと家業が継がれているなんて、スゴイなあと思う。
3代目のFranz Albert II (1854–1931)から、やっと刻印でのブランディングが始まった。また、技術としても卓越したものがあったのもこのフランツ・アルバート2世。ドイツの弓製作の歴史において、一族の名声を確立した。
フランツ・アルバートの刻印は、”*Albert Nürnberger*” 。初めと終わりに★マークが入っているのが、なんだかお茶目。

★マーク、見えるかな?
このスタンプは、彼の息子たち(Carl AlbertとPhilipp Albert)にも使用されている。彼らもまた、素晴らしい逸品を残している。
プロの間では評価の高いドイツ製の弓
ブランディングに失敗したため、フレンチボウの威光に隠れてしまっているドイツ製の弓。しかし、目利きは秀逸なドイツ製の弓の真価をちゃんと見抜いていた。
世界的に有名な歴代の演奏家で、上記に挙げたドイツ製の弓を使っている人は意外に多いのだ。
- ハイフェッツ:Kittle(おそらくKnopf かBausch ファミリーによって製作されたもの)
- クライスラー:Pfretzschner とNürnberger
- オイストラフ:Nürnberger
- シュムスキー:Nürnberger
もちろん、こういうお歴々は霧立のように1本しか弓がないわけでなく、ジャラジャラ持っていらっしゃる。オールド・フレンチボウに加えて、こういった上質なドイツ製の弓も好んで使っていたということだ。
でも、その心理、なんとなく分かるような気がする…。
ストラディバリウスやグァルネリを使用している彼らは、楽器に敬意を払うべく、やっぱりトルテのような最高峰のオールド・フレンチボウを使いたくなるではないだろうか?
それに、世界の名演奏家なのにフレンチボウを1本も持ってなかったら、なんか、どう考えたって…
やっぱりちょっとヘンでしょ…?!
「やっぱり、1本は持たなきゃねえ、大御所の名が泣くワイ!」みたいなところはあるんじゃないか?(もちろん、彼らの所有しているオールド・フレンチボウのクオリティーが素晴らしいのは間違いないと思うが。)
でも、弾き比べてみて、それより100分の1くらいの価格なのにスゴイ弓があったら、絶対買いたくなる。霧立が血迷って、フェティーク(フレンチボウ)とニューンベルガーを両方買おうとしたのとちょっと似ている…。(←「フレンチボウ様」の御威光に預かりたいと思っていた小者。)
イギリスでは、上記に挙げたようなドイツの巨匠が製作した弓は£4,000(約60万円)もあれば手に入る。夢のような話である。
日本では90~120万円はするとのことなので、ちょっとお得感は薄れる。しかし、同等の有名なフレンチボウならその3倍以上することを考えれば、まだまだバーゲンである。
少ない予算で上質の弓を探しているなら、コスパ抜群のドイツ製の弓を試してみる価値はある。