
ノバク・ジョコビッチ—。
テニス界ではフェデラー、ナダルとともに「ビッグ3」に君臨している、言わずと知れたテニスの王者。つい先週末のオーストラリア・オープンでも優勝し、タイトル数ではフェデラー、ナダルの上を行く。
しかし、彼はフェデラーやナダルのような「レジェンド」「スーパースター」として熱狂的に大衆に受け入れられていないという現実がある。強い選手は愛されるのが常なスポーツ界で、ジョコビッチほどの例外はないだろう。
テニスプレーヤーとしてのその技術の高さは誰の目にも明らかなのに、なぜこれほどまでにジョコビッチは愛されないのだろうか?
「好かれたい」気持ちが裏目に
試合に勝った後のジョコビッチは、観客に対して溢れんばかりの愛を表現する。ハグを四方面の観客たちに投げかけるこのジェスチャーは、ジョコビッチお決まりの儀式。
おそらく、「声援を心からありがとう!ファンの皆さんおかげで勝てました!」ということなのだろうが、観客の半分以上はジョコビッチではなく、負けた方の選手を応援している場合が多い。対戦相手がフェデラーやナダルならなおさらだ。自分のひいきにしていた選手が負けたのに、こんな情熱的な感謝のジェスチャーをされても、「別にオイラは応援してなかったし!」と神経を逆なでするのが関の山だろう。
また、ジョコビッチは試合中も自分を鼓舞するために、観客の方を向いて両腕を上げ下げして「もっと自分を応援してくれ!」と言わんばかりのジェスチャーをする。この「自己愛」とも受け取れる行為に、げんなりする人がいるのも分からないではない。
「芝居がかっている」と思われてしまう
また、人気を獲得したいために、彼はあらゆることをする。ウィンブルドンで優勝すれば、コートの芝をむしって食べる不思議な(奇怪な?)パフォーマンスは有名だ。
また、時にはおちゃらけて他の選手やボールボーイ/ガールを巻き込んで、観客を笑わせようとする。しかし、「みんなに好かれたい」という気持ちが強すぎて見ていて「アイタタ…」と目を覆いたくなるのは霧立だけだろうか?
八つ当たりが多すぎるジョコビッチ
ジョコビッチは、試合後(勝った時に限るが)の紳士的な態度とは裏腹に、試合中の態度は決して褒められたものではない。特に相手にリードされている時などは、怒りを爆発させてモノや人に当たることがよく見られるからだ。
① ラケットの破壊。20代の若い選手ならいざ知らず、成熟したテニス選手、しかもトップランクの選手が、イライラを爆発させて力にまかせてラケットを地面に何度も叩きつけて破壊する姿は見苦しいことこの上ない。
② ボールボーイ(ガール)に当たる。試合が自分の思うように運んでいないことに苛立つと、ボールボーイやボールガールに対して怒鳴ったり、暴力的な行為をしたことが過去に何度もある。あるボールガールは、怒鳴られた恐怖に震え、涙を必死に堪えていた。毎回試合後に謝罪はしているものの、テニス選手に憧れ、精一杯の務めを果たそうとしている子どもたちに対してのこのような振舞いは、決して受け入れられるものではない。
これだけ試合中に怒りを抑えられずに人やラケットに八つ当たりをしていては、いくら試合後に紳士的な振舞いをしたとことで、白々しく思えてしまうのである。冷静な時に礼儀正しく振舞うことは、誰にだって出来る。
フェデラーやナダルの立ち振る舞い
一方、同じ「ビッグ3」のフェデラーやナダルは、どんなに試合中に苛立ってもこのような行動に出ない。
フェデラーも、昔は相当怒りっぽい性格だったという。子ども時代はボードゲームで負けるとゲームボードをひっくり返し、小学校の校長先生も今でもフェデラーの悪童ぶりを鮮明に覚えていると語っている。
一流のスポーツ選手なのだから、負けず嫌いは人一倍であるはずだ。しかし、彼はアンガーマネージメントに真剣に取り組み、怒りをコントロールすることに成功した。
ナダルも同様だ。彼の鋭い眼光、日焼けした筋肉質の体は、スペインの闘牛のような雄々しさがある。しかし、ナダルは一度もラケットを折ったことがない珍しいテニス選手なのだ。
ナダルは、その荒々しい風貌とは真逆で、実に繊細で几帳面であることが画面を通してでもよく分かる。休憩で自分のベンチに戻ったときに飲むペットボトルの置き方、コートに入る時の順番、サーブの時のしぐさ、全てがルーティーン化されているのである。
一つ一つの事柄を細部に至るまでルーティーン化することで、「いつもと同じ自分」を保っているのだと思う。どんなに追い詰められても人やモノに当たらず、心を整える術をナダルは知っている。
ダブルスはともかくとしてテニスは、サッカーや野球と違って完全な個人プレー。それだけに、選手の一挙手一投足や表情から内面がもろに見えてくる。しかも、テレビカメラはあらゆる角度から選手を取り巻いているし、狭いテニスコートの中では高性能のマイクに独り言の悪態さえ拾われてしまう時代だ。
テニス選手がコートの上で自分を取り繕うことなど不可能に近い。だからこそ、激高をも抑え込み、苛立ちに打ち勝ち、プレーに専念するフェデラーやナダルは絶大なる尊敬を集めている。
また、コートの外でも彼らはごく自然に振舞う。実際以上に自分をよく見せようとしていない。インタビューでも、思ったことを率直に言う。フェデラーやナダルのことを個人的に知っている人などほとんどいないが、カメラを通じてでも彼らの人間としての魅力を私たちは知っている。
結局、観衆が見たいのは強さだけではなく、スポーツマンシップなのだ。テニスが紳士のスポーツであることを考えると、なおさらである。
フェデラーやナダルの「友達」になれないジョコビッチ
フェデラーとナダルは昔からの良きライバルであり、また親友でもある。お互いを尊敬しあい、信頼しあっているのが伝わってくる。戦士の友情というものは、美しいものであり、微笑ましいものでもある。
フェデラーファンは、フェデラーが心許しているラファ(ナダル)を敵視する気にはなれないし、ナダルファンも同様だ。だから、二人が対戦する試合は、どちらが勝ってもファンの間にも軋轢が生まれないような気がする。
霧立は、ウィンブルドンの試合を見るべく、前日からテント泊をしてチケットを取ったことがある。しかし、そのキャンプ場で見知らぬファン同士尋ねるのは、
「あなたはフェデラー?それともナダル?」
という問いだ。もちろん、他にもひいきにしている選手はいるかもしれないが、テニスファンならそれは即ち、フェデラーかナダル、どちらかのファンでもあることが自明であるかのようなこの問い。誰も、
「あなたは、フェデラー?ナダル?それともジョコビッチ?」
とは聞かないのである。
ジョコビッチは、この二人の間には入れない。いや、誰も入れない、と言った方が公平かもしれない。しかし、実力的には唯一二人に並ぶジョコビッチであるのに、そこには見えない壁がある。
ジョコビッチがフェデラーやナダルを負かせば、ますますジョコビッチは嫌われ役を担うことになる、というのは気の毒だが実際あるような気がする。
ちなみにウィンブルドンのキャンプ場では、ジョコビッチが負けたというニュースが広まれば、歓声があがると聞いたことすらある。
戦地で育ったジョコビッチ
ジョコビッチのマイナスの面ばかり書いてきたので、読者は霧立がジョコビッチを嫌っていると思われたかもしれない。確かに、正直数年前までは大嫌いだった。
でも、彼の人間臭さを知り、みんなに好かれようと一生懸命になっているところ、それでも空振りばかりの彼を見ていると、好きとか嫌いを超えて気の毒に思うようになってきた。
しかも、ジョコビッチは裕福な家庭で育ったフェデラーやナダルと違う。セルビアで育った彼は、コソボ紛争に介入したNATOの空爆を体験している。まだ11歳の時だった。
それでも「同じ場所は爆撃されないだろう」と言って、あえて空爆の跡地に出かけていき、テニスの練習をしたという。整備されたコートで練習してきたフェデラーやナダルとは違うのだ。
テニスでは選手も観客も、大半が欧米人だ。NATOの空爆を体験したジョコビッチの欧米に対する心情は、一筋縄ではないはずだ。その複雑な思いが、孤独な男を作ったのかもしれない、と思いを馳せる。
あんなに強くて何十億も稼いでいるのに、そこまで幸せそうに見えない孤独な王者。どんなに勝っても、フェデラーとナダルというレジェンドを超える日は来ない。いつもどこかで批判される。
先日のオーストラリア・オープン(2021年)で優勝しても、ジョコビッチは優勝会見で批判された。これは、とんでもない異常事態だ。
霧立は、いつかジョコビッチに一人の人間としてハッピーになってもらいたい、と思っている。