
ウィーンフィルの本拠地。ウィーン楽友協会ホール。
「ウィーンフィル」ことウィーンフィルハーモニック管弦楽団は、ベルリンフィル(ドイツ)やコンセルトヘボウ(オランダ)と並んで世界最高峰のオーケストラ。
あまりクラシック音楽に興味のない人でも名前くらい聞いたことがあるかもしれない。また毎年NHKでも放映されるニューイヤーコンサートは、このウィーンフィルによるものだ。
このウィーンフィルというオーケストラは、最近までちょっと変わった伝統を持っていた。そう、「閉鎖的」とも言われるくらい…。
今日は、ウィーンフィルを通して伝統文化は閉鎖的にならざるを得ないのか?ということについて考えていきたい。
ウィーンフィルから考える文化の伝統と普遍性
ウィーンフィルのコンサート
スコットランドから電車に揺られて片道4時間。先日、ロンドンでウィーンフィルのコンサートに行ってきた。
オーケストラのコンサートはこれまでもたくさん行ってきたが、今回は初めの数小節聴いただけで
(ああ、これがウィーンの音か…!!)
と、心臓をわしづかみにされた感じ。柔らかく、繊細。空気感たっぷりの絹のような音。
本当に、オーケストラによって出す音の個性が違うことに驚く。例えばロンドンシンフォニーは、透き通った銀のような音、シカゴシンフォニーは四角い張りのある音(特にブラスセクション)…。
ヨーロッパのオーケストラの弦楽器は、その国で製作されたものを使うことが多い。それが音の特徴に原因していることは間違いないと思うが、その国の国民性や自然のイメージ(総じて「文化」)がなんとなく音のイメージと重なるような気がしている。
目を閉じて聴いていると、音の柔らかいベールに包まれているような夢のような80分だった…。
差別か伝統か?
かつでは「女人禁制」
目を開けると、団員は圧倒的に男性が多いことにすぐ気づく。女性はほんの数人。
そう、最近までウィーンフィルの団員は男性のみに限られていたのだ。Wikipediaによると、
1990年代まではオーストリア(ドイツ人)または旧ハプスブルク帝国支配地域出身の男性にほぼ限定されており、女性団体から批判されることもしばしばだった。しかし、1997年に女性ハープ奏者アンナ・レルケスを採用したのを皮切りに、女性団員が徐々に増加している。
ということだ。ハープ奏者は断然女性が多いから、ハープから「伝統」が崩されたというのも当然の成り行きともいえる。
2018年10月のある記事によると、現在ウィーンフィルの女性団員は12%で、いまだに世界最低水準だという。
しかし、それならまだいいほうで、実際のコンサートでは女性の割合はそれよりずっと少ない。先日のコンサートでは、おそらく2,3人しか女性奏者はいなかった。これはおそらく3~4%のはずだ。

「女ですが、何か問題が…?」
ちなみに、世界のオーケストラの男女比は、だいたい50:50となっている。
さらに高い人種の壁
かつては男性だけでなく、国籍も団員はオーストリア(orドイツ)人に限定されていた。最近では、オーストリア人やドイツ人だけでなく他のヨーロッパ人にも門戸を広げたが、依然として白人だけ。
先日のコンサートでも、有色人種は一人もいなかった。
ウィーンフィルの団員の多くは、ウィーン国立音楽大学の卒業者から採用される。ウィーン国立音楽大学で勉強しているアジア人は25%で、プロフェッショナルレベルの人材も多いにもかかわらず、アジア人は一向に正式なメンバーとして採用されないという。
人種の壁は、特にアジア人にとって高いと言われている。
こんな話がある。
チューバ奏者の杉山康人(すぎやま・やすひと)氏は、試用期間としてウィーンフィルにいた。しかし、使用期間終了前の2003年に解雇されてしまった。
ウィーンフィルの評議会代表、Clemens Hellsbergは杉山氏についてこう言っている。
彼は、世界でもっとも優秀なチューバ奏者の一人だと思う。しかし、客席で聞いていても、彼の音の出し方がオーケストラ全体と違っているのが分かってしまうのだ。(拙訳)
杉山康人氏は、ウィーンフィル試用期間解任直後、「アメリカの5大オーケストラ」として名高いクリーブランド管弦楽団のポストを手にしている。(良かったね!杉山さん!)
アメリカのオーケストラでは、フルタイムのポストを手に入れるのは激戦だ。しかも大勢いる弦楽器とは違って、チューバはただ1人。
そんな激戦区の中、難なくクリーブランドが杉山氏の実力を認め、正式なメンバーとして迎えたことを考えると、やはりウィーンフィルには実力だけでは通用しない「何か」があったのだ。
実はチューバ奏者でもあるマナブ(夫)によると、管楽器の奏法は同じヨーロッパでも国によって全然違うという。だから、この「何か」が単純に「人種差別」ではなく、本質的な部分の問題であった可能性は十分あり得るという。
しかし、過去にはこんなヒドイことを公然と言った評議会代表もいた。
ブラインドオーデション(公平な審査のためにスクリーンの後ろで演奏する)で、ある応募者は最もすばらしかった。しかし、スクリーンが上がって目の前に立っていたのが日本人だったので審査員は仰天した。しかしながらその応募者は採用されなかった。なぜなら、彼の顔はニューイヤーコンサートの「ピチカートポルカ」(ヨハンシュトラウス)には相応しくなかったからだ。(拙訳)
「ウィーンフィルはなぜ杉山康人を解雇したのか?」
ここまでくると、露骨な差別だ。
日本では、このニューイヤーコンサートのチケットを入手するのは裏ルートがないとほぼ無理と言われているほど大人気である。しかし、ここまでアジア人が差別されている裏話を知ってしまうと「ニューイヤーコンサートになんか行くもんかっ!!」という気になるのは霧立だけだろうか?
ロンドンまでのこのこ出かけて行った自分たちも情けなくなってくるし、あの「夢のような80分」も一気に色あせる…。
*実際、この後ウィーンフィルは採用方法が批判され、方針変更を余儀なくされた。しかし、いまだに非白人のプレイヤーはいない。
常任指揮者は置かない
またウィーンフィルは、常任指揮者を置かないことでも有名である。ウィーンの音楽スタイル(「私たちの音楽」)を持った指揮者でなければ従わない、というのが彼らの姿勢。
彼らにとって「よい指揮者」とは、
「私たちの音楽を邪魔しない指揮者だ」
と過去にライナー・キュッヒルというコンサートマスターがハッキリと言っている。自分たちと音楽の解釈が違えば平気で指揮者をバカにするという。(ちょっと「マルレ・オケ」のコンマスを思い出すのは霧立だけか?)
「自分たちの音楽をつくりたい。指揮者から指図される必要はない」-そんな思惑が、常任指揮者を置かない理由だろう。「ウィーンの音楽こそが真の音楽」と言っているに等しい、すごい自信だ…。
究極的に文化は閉鎖的なのか?
優秀な日本人奏者が外見ゆえに排除されたことには、確かに頭にくる。しかし、じゃあ「真にウィーン的なもの」を本当に外国人が理解できるのか?と問われたら、これは表面的な人権概念だけで議論できる問題ではないのは分かる。
例えば、茶道の世界や「もののあはれ」「わびさび」という日本独特の美的概念を外国人は本当に理解できるのか?
また、海外にある日本食レストランに行っても、その国風にアレンジされているものがほとんど。本格的な日本食レストランに行って、板前がフィリピン人だった場合、私たち日本人はそれをどこか「二流」と位置づけていないだろうか?(別にフィリピン人を差別しているのではなく、単なる例だ。)
ウイーンフィルを人権概念で「差別的」と一刀両断するのは、文化の奥深さを考えたらそんなに簡単なものではないのかもしれない。
しかし、だ。
プロになるような人たちは、4歳、5歳からクラシック音楽に身を置いて育ってきている。また、ヨーロッパに留学している人たちも多くいる。
かたや日本食レストランで板前をやっているフィリピン人は、まさか4歳、5歳の頃から毎日日本食を食べて育ってきたわけではあるまい。
文化には越えがたい壁があるのは分かる。しかし、絶対に超えられない壁ではない、と思いたい。ましてやアジア人という「見た目」で排除されるのは、差別以外の何ものでもない。
クラシック音楽奏者の実力でいえば、アジア勢の躍進がめざましい。ここ10年くらい、大きな国際コンクールでも入賞者を占めるのは、韓国、中国、日本というアジア勢が最も多い。
「ウィーンの音楽」の固有性にこだわる気持ちも分からないではないが、それ以前に実力のあるプレイヤーの確保が今後一層難しくなってくるのは間違いないだろう。
いくら「ウィーンの音楽」は残せても個々のプレイヤーのレベルが下がってしまったら、元も子もない。いや、むしろ表現力は技術があって初めてついてくるものだ。
グスタフ・マーラーは「伝統とは灰を崇拝することではなく、炎を伝承することである」と語ったそうだ。
「ウィーンの音楽」が真に普遍的ならば、性別や人種を超えてその「炎」を継承する外国人プレーヤーがいるはずだ。皮肉にも、それこそが質の高い「ウィーンの音楽」を残す道となるかもしれない。
ちなみにお隣ベルリンフィルのコンサートマスターは、2代続けて日本人(安永徹氏と樫本大進氏)!次は、ベルリンフィルのコンサートにしようかな~と思う霧立であった。
どこの国でも、伝統を守るために閉鎖的になることがあるんでしょうね。歴史のあるヨーロッパやアジアは特に、新参アメリカ合衆国よりもそういう傾向が強いのでしょう。しかし、今の時代、どこの国にも移民がい、ヨーロッパの国の国民だからって、白人とは限られないわけですよね。オーストリア生まれのオーストリア育ち、でもご先祖様はカンボジア人とかきっといるわけですよね。そういう人は単に人種が違うだけで、生粋のオーストリア人。白人だろうとアジア系人種だろうと、同じ立場に立つのではないかなと思うわけですよ。そういう人たちの方が、外国からくるアジア系の人たちよりも、ウィーンフィルに入りやすいのでしょうか。それとも、有色人種だという同じ立場になってしまうのでしょうか。
マナブさん多才ですね。チューバ吹くなんて知りませんでした。霧立家は、音楽一家ですね。
柴犬エラさま
コメント、ありがとうございます!
柴犬エラさんは、たしかアメリカにお住まいでしたよね?
おっしゃっるように、歴史的にアメリカのほうが多様性にオープンだと思います。
オーストリアに関しては、”The Independent”(イギリスのメディア)の記事によれば「ウィーンはロンドンのような人種のるつぼではない」
と書いてありました。
私は行ったことがないので自分の感覚としては分からないのですが、どうやらオーストリアはヨーロッパの中でも白人率が高いようです。
だから、おっしゃるような「アジアにルーツのあるオーストリア人」というのは、非常に少ないのかもしれません。
実際、数年前に半分アジア系の血筋を持つオーストリア人がコンマスに就任したそうですが、それだけでかなり話題になったようです。
「アジアの血筋もハーフなら、まだOK」ってことなのでしょうか。
ちょっと、悲しいですね。
また、「白人としての見た目」を重視している彼らは、いくら国籍としてはオーストリア人でも100%アジア系などだと難しいのではないでしょうか?
アメリカのオケなんて見ると、いろんな肌の色の人が結構います。
私は、音楽は国境を越えて一つになれるものだと信じているので、そういうアメリカのオケを見ると本当に素晴らしいなと思います。
霧立灯
こんにちは。
大好きなウィーンフィルの話題なので、横槍失礼します。
確かに人種差別の問題もあると思いますが、二つの違う側面もあるのかな? と思います。
一つ目は音楽性の素養
ウィンナワルツを子守唄のように聴いて育った人達にしか奏でられないものがあるのかなと思います。ワルツを踊れる人でないと踊りの音楽であるワルツを上手く奏でられないという問題です。昔ワルツをオケでやろうとした時の練習で、ウィーンで学んだ指揮者の人から全員立って踊ることでワルツのリズム感を習得させられようとしたことがあります。
オケの皆んなの結論は日本人にはワルツは無理(笑)。舞踏会と盆踊りで染み付いたリズム感が全く違うのです。
あとスペインを旅行していた時に感じましたが、ほぼ全てのスペイン人がフラメンコのリズムを刻めるのです。これには相当驚きました。人種というよりも、生まれた時からそういう環境で育つ事が大事なのかなと思います。
舞踏会を身近に感じながら、オーストリアで生まれ育った外国人なら大丈夫かもです。
二つ目は見た目の問題
日本の伝統芸能である歌舞伎や能に身長2mを超える黒人の方が、いくら技術が優れているからといっても採用出来るでしょうか?
アメリカに住んでいて感じますが、この国にはそのような文化や伝統が無いのです。アメリカ人とはいっても何世か遡ると色々な地域や国から来た人々ばかりです。この国では技術以外のモノサシを持てないでいるみたいです。
よって優秀な演奏者が世界中から集まって来るので、オケの個々の技術は凄いものがありますが、ウィーンフィルとは逆で良い指揮者に恵まれないと良い音楽を奏でてくれないのです。確かに上手い、だけど…という演奏が多いと感じています。
偉そうに失礼しました。
KenKenさん
コメントをありがとうございます!
ウィーンフィル、大好きなんですね。ごめんなさい、ちょっと辛口でしたね、私。
一つ目のワルツのリズムについて
それは本当にそう思います。私も昔のヴァイオリンの先生に「日本人が一番苦手なリズムはワルツだ」とよく言われたのを覚えています。
ワルツを踊れる人でないと演奏できない、というのも、きっとそうなんだろうなあと思います。
特にヴァイオリンの奏法は踊りと深く関わっているなあと、ピアノだけ弾く人にヴァイオリンを教えていて最近気が付きました。
スペインのフラメンコのリズムの話、すごいですね。さすがスペイン人!
急に村治佳織さんのことを思い出しました。彼女はかなり上手だと思うんですけど、日本育ち。
壁はやっぱりあるのでしょうか…?
二つ目の見た目のお話。
歌舞伎や能のことは、実は私もちょっと考えたんです。
でもあれは日本固有の伝統芸能ですよね。
かたやクラシック、オーケストラは今や世界の多くの国で愛されています。
ズービン・メータや小澤征爾も世界で活躍するマエストロだし、多くの有色人種プレーヤーも各国のオケにいますよね。
なぜ、ウィーンだけダメなの?というのが私の疑問なんです。
そいう意味で、歌舞伎や能という日本に固有な芸能とオーケストラを同列に並べるのは難しいかなあ…と個人的には思います。
しかし、ウィーンフィルは、「オーストリアの大使」という自覚があるようです。
そういう意味で言えば、ウィーンフィルが単なる「一オーケストラ」ではないのかもしれませんね。
それこそ、「オーストリアの伝統芸能」というスタンスなのかもしれません。
アメリカのオケは、指揮者によってかなり出来が違うというのは聞いたことがあります。
KenKenさんがいうように、バックグラウンドが様々だからでしょうね。
でも、私はそこが好きです。
いろんな人種や肌の色の人がいて、でもみんなで素晴らしい音楽を作り上げる…というのが見ていても、中で弾いていても感動します。
これぞ、音楽の力!という気がして。
ちなみに私はアバド時代のシカゴシンフォニーが大好きです!!
マーラーだったら断然私はシカゴ。
ブラスセクション最高!
霧立灯
霧立さん、早速のご返信ありがとうございます。
大好物の話題になってきましたので、少しコメントを。
私はマーラーは、バーンスタイン-ウィーンフィルが一番好きです。
しかごとかの分厚いブラスとは違って、天から包まれるようなブラスの響きにやられます。
特に生で聴くとウィンナホルンの優しくも力強い音が上から降ってきます。
シカゴの最新の楽器によるブラスの響きも曲によっては良いですが、
ウィーンは未だに古臭い独特の楽器を使って、それでいてダイナミックな音が出せるのが凄いと思います。
でも、いろいろなバックグラウンドの人達が音楽を通じて一体になるのも素晴らしいですね。
昔、小澤征爾がボストンシンフォニーの弦が、シューベルトやベートーヴェンを半弓で弾いていたのに対し、澄ました顔で弾いてはダメだ。全弓使って全身全霊で弾きなさいと指示してました。そうしたら、全く違う音が出てきたのを思い出しました。
気持ちが一緒になれれば、国境は関係ないですね。
KenKenさん
またまたありがとうございます!
ウィーンフィルは、確かに「天から包まれるような響き」を持っていますね~。
私も先日のコンサートで、初めてそれをリアルに体験しました。
繊細で上品な音。
シカゴとはかなりタイプが違いますね。
その曲に何を求めるかーですね。
私も、なんでもシカゴが好きなわけではなくて、マーラーとブルックナーのあたりの話です。
室内楽なんかではイギリスのアンサンブルが好きですし、色彩感豊かな曲はパリ管も素晴らしいと思います。
「気持ちが一緒になれば国境は関係ない」というのは、本当にそうだと思います。
小澤征爾は、カリスマ指揮者の時代の人ですね。
最近の指揮者はマネージメント力なんかも求められているようですが、私は指揮者に強いカラーと求心力を求めたいです。
もう、彼の音楽を聴く機会は少ないかもしれないのが残念です。
霧立灯